「今日か明日、これこれの町へ行って、そこで一年滞在し、商売して儲けましょうと言う人たち、あたがたは、明日のことが分からない身です。あなたがたのいのちは、どうなるのでしょうか。あなたがたは、しばらく現れて、消える霧にすぎません。あなたがたは言うことを変えて、『主が欲したもうならば、私たちは生きて、このことあのことをしましょう』と言いなさい」。私たちは、「一年の計は元旦にあり」と、自分の計画をもっています。一年の終わりに、もう一度その計画を点検して見ると、実現できた計画は、何と二割か、三割に過ぎません。大部分の計画は、途中で挫折したか、未完成のままです。ただ自分の計画が挫折したかに見える時も、神の計画はなっているということを、かなり後で知るようになります。「今日か明日、これこれの町へ行って、そこで一年滞在し、商売して儲けましょう」。このように、私たちの計画は、かなり自分勝手ですし、病気とか、世界情勢の変化とか、いろいろな点は抜けています。そこには自分の都合の良いことばかり考えるという、自己中心がひそんでいます。誰でも、自分の計画は立て方が甘いのです。失敗するのは、自分が儲かることばかり考えて、マイナス面を忘れるのです。聖書にも、「人には多くの計画あり、されど神のみ旨ねのみが良く立つ」(箴言19:21)とあります。したがって、パウロは、いつも計画を語る時、「主のみこころならば」という言葉をつけくわています。「人の道は、自身によるのでなく、歩む人が、その歩みを自分で決めることのできないことを」(エレミヤ10:23)と旧約聖書にもあります。このように人間は、何度も失敗し、行きつ戻りつ、試行錯誤の連続で、その後、初めて自分にふさわしい道を見いだすのではないでしょうか。その時、後から振り返って見て、やっと神のみ旨ねがどこにあったか見いだすのです。その際、私たちは、あらかじめ神のみ旨ねを知ることはできません。それは神が主になるためです。そう言われると、人間の計画のほかに、人間の計画と同じような形式、同じような形で、神の計画というものが、どこかに厳然と存在しているかに勘違いします。たとえば、実戦部隊(人間)があって、その計画は勝手に自分たちがこしらえたもので、それとは別に参謀本部(神)には、参謀本部で自分たちの計画があると言ったように考えませんか。しかし、もしそうなら、「主が欲したもうならば、私たちは生きて、このことあのことをしましょう」という、私たちの計画も、全く無意味になります。すべてはみ旨ねだから、みな神さま任せになります。東洋の静寂主義のように、運命や自然に任せ、私たちは主体性も自主性もない、操り人形になります。しかし、「もし心に信じて疑わないなら、この山に移って海に入れと言っても、そのごとくなる」(マルコ11:13)とイエスは言われます。それは運命に屈服するのではなく、運命とこの世の悪に逆らって、神のみ旨ねを求めて行くのです。それはみ旨ねを聞いて、計画を立てて行くのです。大胆に計画を立てる時、主があなたの計画の中に入ってきてくださるでしょう。それはちょうど、子供が、自分で計画を立て、「お父さん、これでどうですか」と聞くようなものです。神は私たちの計画の相談相手になってくださるのです。神は生きた人格です。呼べば答えるお方です。それは冷たい死んだ運命ではありません。神の計画は、人間の計画とは、質的に違いますが、同時に、神は肉体をとって私たちの中に宿ってくださるのです(ヨハネ1:14)。神の計画が、私たちの計画の中に入ってくださるのです。そのために祈りなさい。静寂主義は、祈りの敵です。主のご計画とは、イエス・キリストです。神は、あなたをキリストに向かって選びました。ですから、キリストに向かって導こうとしておられます。そこでこの神の目標と計画を聞くのが祈りにほかなりません。ゲッセマネの祈りで「みこころのままに」は祈りの最後です。それまで、主は苦闘したもうたのです。神の計画と人間の計画は同質でありません。人の計画はくずれます。しかし、がっかりしてはいけません。人の計画がくずれる時こそ、神の計画のなる時です。自分のつくった緻密なプログラムが、はかなくも駄目になったことを経験した人こそ、その時、神のなさる、驚くべき御業を信じるようにさせられるのです。神に従う計画は、いつも主のみ旨ねによって軌道修正させられ、決して自分を絶対視しないのです。相対的であるコンピューター社会の人間のプログラムは、間違いもあれば、誤差もあります。その間違いと誤差のところに、神の不思議なご計画を読み取るのは、もはやコンピューターではなく、あなたの信仰と祈りにほかなりません。何が幸いになるか分かりません。しかし、信じる者は、神がすべてを益と変えてくださることを信じて疑いません(ローマ8:28)。
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