9月4日「時がよくても、悪くても」説教要旨
テモテへの手紙 二   4章1節〜8節

 

   聖書は「時がよくてもわるくても御言葉を宣べ伝えなさい」と言います。目に見える面では、伝道が思うように進展する時と、そうでない時とがあります。そのことで、一喜一憂する必要はありません。時は神のものだからです。宣教にとっても、良い時と悪い時とを区別するのは、時の主である神を忘れる行為です。悪い時を良く用いるのも神であり、良いと思う時に案外落とし穴がある場合すらあります。御調子に乗ってもいけないし、がっかりすることもありません。このことは事業でも、教育でも、私たちのする小さな仕事でも同じではないでしょうか。
   しかし、私たちは、すぐ「時が悪い」と言います。いや「場所が悪い」と言うのも同じです。時が悪い、場所が悪いというのは、言い訳です。あなたの信仰が悪いのです。「希望の神学」がないのです。しかし、聖書は「今は時期が悪いけれども頑張れよ」というのではありません。もっと神の終末を目指しています。パウロは今、そのような悪い時に出会わせています。「このわたしは、すでに犠牲を捧げています。わたしの去るべき時が来ています。わたしは、よい戦いを戦い抜き、走るべき行程を終え、信仰を全うしました」。これはもう殉教の最後を遂げる覚悟のできた人の言葉にほかなりません。しかし、それでもパウロはめげません、「今や、義の冠がわたしを待っています。かの日に主が、正しいさばき主が、わたしにそれを授けてくださるでしょう。ただわたしだけでなく、すべて主の出現を愛する人びとにも授けてくださるでしょう」と確信しています。悪い時こそ、良い時という神の真理を地で行ったような行動です。そして続く言葉は、彼の環境と状況の悪いことを如実に示していないでしょうか。「神と生きている者と死んだ者とをやがてさばかれるキリスト・イエスのみ前で、またキリストの出現と彼の御国にかけて、わたしはおごそかに勧めます。御言葉を宣べ伝えなさい。時がよくても悪くても、それに励みなさい。全き寛容と教えによって、責め、戒め、勧めなさい」。ここには、パウロが、きわめて厳かに勧める調子が現れています。ただ勧めるのではなく、「生きている者と死んだ者とをやがてさばかれるキリスト・イエスのみ前で」、また「キリストの出現と彼の御国にかけて」という念の入れようです。おそらく後で記されていることからして分かることですが、パウロは自分の死の近いことを予期しているようです。したがって、「生きている者と死んだ者」とか、「キリストの出現とその御国」ということが、出てくるのだと思います。しかし、終末や死という、永遠の世界を目の前にした者にとって、大切なのは、今、現在のことです。「時がよくても悪くても、それに励みなさい。全き寛容と教えによって、責め、戒め、勧めなさい」と言っています。
   時、時間とは何でしょうか。今私たちは、年が進み、もう時間がないと思います、「もはや時がない」(黙示録10:6)という言葉が、聖書にあるのをご存じですか。しかし、驚くことにそれは「神の奥義が成就される」時だったのです。すると年齢、時ではありません。時間ではありません。神の時、チャンスです。今がグッドチャンスです。「その話は、もっと早く聞いておけばおかった」と言った婦人に、フランクルは言いました。「今が、聞いたその時がチャンスで一番よい時なのだ」。神の時、それは人間にとって悪い時も、良い時に変える神の業です。恵みは、決して失望では終わりません。それは希望の福音です。新しい希望が、別な方面から現れ出て、わたしたちを助けてくださいます。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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