ここで性格について考えるなら、お姉さんのマルタは、でんぽうで、実際家、やり手のお料理上手、口も八丁、手も八丁、指導力もあり、何をやらせてもそつがない。しかし、妹さんのマリヤは、どちらかと言えば、内面的で、台所仕事よりも、静かに御言葉を聞いたり、めい想したりする方が、性に合っていると言った具合です。確かに人間には性格というものがあって、それは人間の重要な要素になっていることは、否めません。けれども、すべてを性格にしてしまえば、面白いかも知れませんが、その時、いつの間にか、人間を抽象的に見て、ある枠にはめ、さらに過去思考にとらわれ、こういう性格だから仕方がない、としてしまいます。そこには、驚くべき神の御業はありません。性格は、核心に遺伝的要因があり、次に、文化的要因つまり日本人であるということがあります。第三に小さいときの家庭的環境が上げられます。後は、学校とか、選んだ仕事とか交友関係などで性格が構成されます。そこには正反対の要因すらあります。ある面慎重な人が、他の面でそそっかしいと言うことがありませんか。しかし、性格は変わり得るのです。イエスは、そのように変わりやすい性格を問題にしたり、それを批判したりいたしません。イエスは、マルタの肉体的奉仕を非難してはいません。このマルタの奉仕は、具体的奉仕で、立派なものです。しかし、マルタには、奉仕にもう一つ、何か別なものが、付け加わっています。そのため彼女は、心を取り乱し、気も転倒してしまっているのです。イエスにまであたり散らし、自分の妹に、手伝いをするように言わないことが、けしからんとでも言いたげです。マルタの最大の欠点は何でしょう。「あなたは、多くのことで思いわずらい、取り乱しています。しかし、無くてならないものは、多くはありません。ただ一つだけです。マリヤは良い方を選びました。それは、彼女から取りあげてはいけないものです」。第一は、多くのことで思いわずらっていること。彼女が、このようなことで取り乱しているのは、多くのことが頭にあるからです。しかし、イエスは、無くてならない一つのものを示しました。「無くてならないもの」とは何でしょう。最近見ていると、多くの人が失敗しているのは、家の問題つまり建築して家をもつことと、子供の学校や教育の問題であります。いずれもお金のかかることで、そのため金をかせごうとします。そこに一つの盲点があります。つまり多くのことで思いわずらい、心を取り乱すばかりでなく、病気になったり、ごたごたしてきたりします。皆さん無くてならないものは、多くはありません。このことに「ただ一つの」ことに気がつかなければなりません。「まず神の国と神の義を求めなさい、そうすればすべてこれらのものは添えて与えられるでしょう」
マタイ6:33)。多いというのは欲からきます。欲に悪魔がとりつきます。その結果は、取り乱し、心を患わせる結果となります。そして面白いことに、最初得ようと思って始めたお金もえられないどころか、大損するのがおちです。第二に、彼女は思いわずらっています。「あなたの思い患いを神にゆだねなさい、神があなたがたのために思いわずらってくださるであろう」(Tペテロ5:7)。そうです思いわずらうのは、神の仕事です。神の領分を侵して、思い患うとき、仕事はできなくなります。その結果は、やつあたりと、怒りです。マルタは確かに良いことをしました。イエスを心からおもてなししようとしました。どうしてそれが悪いことがありましょうか。しかし、良いことのゆえに、心を取りみだし、腹を立てました。良いことから、悪い結果が出てきます。最後にイエスは言われます、「マリヤは良い方を選びました」と。つまり選択の第一歩において、マルタは間違っていました。御言葉を先にすべきだったのです。「御言葉をさしおいて食卓につかえてはなりません」(使徒行伝6:2)。すべてのことに時があります。働くに時があります。聞くに時があります。行動するに時があります。しかし、沈黙し、耳を傾ける時があります。これを取り違えないようにしましょう。「主はそのきよき宮にいます。すべてのもの、そのみ前に沈黙せよ」(ハバクク2:20)。西谷啓治も次のように言っています。「かってパウロがあったような恍惚状態にあって、しかもある病人が一杯のスープを求めているなら、その愛と恍惚から去って、一層大きな愛のうちにその渇く者に奉仕するなら、私はその方がはるかによいと思う」と、マルタに一層高い位置を与えています。しかし、時間と永遠との相即の、高い、単に時間を離れた永遠ではなく、時間のただ中において永遠の立場を学ばねばなりません。そこでは時間性と永遠性とが仕事の中でひとつになるのです。「人間は神と共作することを学ばねばなりません」。
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