「ある病人がいた。マリアとその姉妹マルタの村、ベタニアの出身で、ラザロといった。 このマリアは主に香油を塗り、髪の毛で主の足をぬぐった女である。その兄弟ラザロが病気であった。姉妹たちはイエスのもとに人をやって、『主よ、あなたの愛しておられる者が病気なのです』と言わせた」。
ここに一人の病人がいます。それはどこにもいます。ここにも、あそこにもいます。「病むと言うことは、全く人間的なことです。あなたも病みます。わたしも病みます」。しかし、人が病気になる時、悪魔がささやき、病むとは神の愛に反する事実であるように考えさせます。「あなたが愛している者」と「病気」、それは反対ではありませんか。神に愛されている人が、どうして病気になるのか。けれども、病は、決して神の愛、イエスのわたしたちに対する愛をさまたげるどころか、かえって増す場合さえあるのです。イエスはそれを聞いて、言いました、「この病は、死に至るものではありません、むしろ神の栄光が現れるため、神の子がこれによって栄光を受けるためです」。 人間の病と死を通して神は、ご自身の栄光を現したもうのであります。
私はほとんど青年時代は、病気でした。死の境をさまよって、他力でなくては駄目だと思いました。その時、『死に至る病』(キルケゴール)という本に、「死に至る病とは絶望である」と書いてありました。病を通して多くのことを学びました。特にどんな時にも、絶望しないことを。
ところが「イエスは、マルタもその姉妹も、またラザロをも愛していました。 そしてラザロが病気であると聞いて、その場所になお二日留まっておられました」。人間の考えからすれば、一刻も早くと思うでしょう。しかし、主は愛のゆえに、そこに二日も留まりたもうたのです。主は愛のゆえに、わたしたちの祈りを聞きたまわないことがあります。わたしたちは信仰の試練の時も、信仰を保って、主の働きを待ち望みたいと思います。救急車は一刻も早くでしょう。しかし、それは病気の物理的面です。イエスは、病気の精神的面、信仰的面をごらんになります。それは人間の熱心が事をするのではなく、ただ万軍の主の熱心が事をするためであります(イザヤ三七・三〇)。病気の時、このイエスの二日滞在を考えることは、大変大切です。 イエスは、「しかし、わたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたが信ずるようになるために喜びます」と言います。「わたしたちは、しばらくの間、暗黒サタンが勝利を占める事実に出会わなくてはなりません。それに驚かず、そのために主は、わたしたちの信仰を養いたまい、ついに大いなる勝利を得たもうことを信じて喜びたいと思います。『しかしわたしがそこにいあわせなかったことを、あなたがたが信ずるようになるために喜びます』と主は言われました。なぜなら、それによってなお明らかな神の栄光が輝くからであります」。
マルタは、「主よ、もしここにいらっしてくださったなら、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」と、イエスに向かってこう言いました。これはマルタの嘆き悲しみ、またイエスに対する抗議とも受け取れます。しかし、ここで大切な言葉は、マルタが言った「ただ今でも」と言う一言です。どんな状況でも、わたしたちが「ただ今でも信じています」と言える時、わたしたちは信仰の勝利の道を走っているのです。それと対照的なのは、「ならば」の信仰です。「主よ、もしここにいらっしてくださったならば、わたしの兄弟は死ななかったでしょうに」。わたしたちはよくやります。「もしわたしたちに力があったならば、金がもっとあれば」、いくらでも続きます。こういう条件付信仰には力がありません。信仰は一切の条件を越えます。イエスは、あのてんかんの子の父親に言われました、「もしできればと言うのですか。信じる人には、どんなことでもできます」(マルコ九・二三)。「ならば」の信仰は、大切なことを忘れているのです。「二人または三人が、わたしの名によって集まるところ、そこ、あなたがたのただ中に、わたしもいるのです」(マタイ一八・二〇)とイエスが言われたことを忘れているのです。大切なのは、このイエスが、たとい二三人のわたしたちの中にもいてくださり、ご自身ですべての条件を造ってくださることを信じることです。
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