「苦しみに会ったことは、わたしに良いことです。これによって、わたしはあなたのおきてを学ぶことができました」。どうしてでしょう。私たちは、今日、不条理の「苦悩」の問題で苦しんでいるのではないでしょうか。私たちは「苦しみに耐えた」とか「苦しみと戦った」と言うことはできます。けれども、どうして「苦しみに会ったことはわたしに良いことです」と言えるでしょうか。よく地震、津浪、戦争、いろいろな不当な苦難について、「これでどうして神がいるか」と問います。では、神がいなければよいのか、無神論なら、この不当な苦しみの問題は解決するのか。そこで二つのことが問われます。第一に、無神論なら、いっそう苦悩はひどくなる、何も解決の当てがないから。第二に、どうして苦悩の問題で、神が出てくるのか。つまり苦しみと神とは関係がり、どこかでつながっているのです。人びとには、その問いで、「正しい神、正義の神、愛なる神」のイメージと苦悩とがあわないのです。しかし、私は、自分の戦争中の経験から、そういう問いを出す人は、苦しみの渦中にいない人だと思います。フランクルは、あのアウシュヴィッツから解放された時の経験を、「このような恐ろしい経験をしたからには、もはや神以外の何物も恐れるものはないという、不思議な感情が、人びとを支配した」と言っています。
「苦しみに会ったことは、わたしに良いことです。これによって、わたしはあなたのおきてを学ぶことができました」。ここには現実に苦悩に出会って、今苦しんでいる人がいます。その人が、抽象的でなく、頭で考えてではなく、きびしい苦難を切り抜けて、「苦しみに会ったことは、わたしに良いことです」と言えたのです。「耐えた、戦った」でありません。「良いことだった」、それは勝利の宣言です。前に「忙しいとは、永遠の不在だ」と申しました。無意味とは、永遠の不在なのです。たとえ楽しいことばかりであっても、そこに意味がなければ、どうでしょう。苦しみでも意味のある苦しみがあります。それは永遠につながる苦しみなのです。「苦しみに会ったことは、わたしに良いことです」、「これによって神の律法を学びえた」、それこそ永遠に出会ったのではないでしょうか。
苦しみに四種類の苦しみがあります。1 自業自得という苦しみ。悪いことをして刑務所にいれられるのも、自業自得の苦しみです。しかし、2 不条理の苦しみがあります。自分は何も悪いことをしていなくても、そうです、津波にあったり、地震にあったり、台風にあったり、世の中には、回り合わせが悪かった、そういう苦しみがあります。ここでは、神はいるのかという先ほどの議論がでてきます。3 また人のための苦しみ、愛の苦しみというのがあります。4 しかし、ここにもう一つの苦しみがあります。それが、他の全部の苦しみを覆っており、それらの苦しみの解決でもあります。それは神の愛の苦しみであり、イエス・キリストの十字架の苦しみであります。この神の苦しみは、前のすべての三つを包み越えています。第一に、自業自得の苦しみ、この最低の苦しみもまた、この十字架の苦しみに包み込まれています。神はゆるす神です。西田幾多郎は、「ギリシアでは、過去は帰らない、変えられない、しかし、キリスト教ではそうでない、過去を変えることができる。悔い改める道がある。イエス・キリストにおいて、あなたの過去は変えることができる」と書いています。この自業自得の罪と苦しみも、このイエス・キリストの御手にあるのです。不条理の苦しみ、これは、正しい神はいるのかという神義論を生みました。しかし、前に言ったように、無神論で解決できるか、できません。この苦しみを十字架の上で、負い、さらに死んで生き返る復活の主を、私たちは信じなければなりません。愛のゆえの苦しみもまた、十字架によって意味を得るのです。では十字架による苦しみの意味とは何でしょうか。永遠な神が人となったのです。そして人生の苦しみを担ったのです。あなたはイエス・キリストを通して、永遠なる神とふれあったのです。その方の十字架を見上げる時、私たちは初めて、自分の苦しみの意味に到達するのです。永遠の不在ではなく、永遠なる神の臨在を覚えるのです。
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