「イエスがそこを出て、いつものようにオリーブ山に行かれると、弟子たちも従った」。ここには「いつものように」祈る主が出てきます。「いつものように」祈るのでなければ、祈りは祈りではありません。祈りは、呼吸・食物です。祈りが、あなたの信仰を支える食物でなければ、それは本物でありません。食物を食べない人がいないように、祈りをしない信仰者はありません。もしあるなら、その信仰は偽物です。「絶えず祈れ、すべてのこと感謝せよ」(Tテサロニケ5:17)。次にイエスは弟子たちに、「誘惑に陥らないように祈りなさい」と言いました。祈りは、あるものに逆らって祈るのです。悪魔に対する戦いを始めることです。「果報は寝て待て」いう祈りの自然主義はいけません。皆さん、「祈る時ほど祈っていない時はない」といったことがありませんか。形式的で、神が目の前にいると信じて祈っていないのです。しかし、イエスは危機的状況の中で、弟子たちの無理解やユダの裏切りのあるただ中で、「出ていっていつものように祈られました」。弟子たちは、イエスが血の汗を流して苦闘しつつ、祈っている時、悲しみの果て眠ってしまいました。それは肉の弱さです。しかし、主に従ったなら乗り切れないものは何もありません。従い得ない理由は自分にあるのです。信仰とは、常に誘惑の中にあります。ずっと主に従ってきた弟子たちとても、誘惑に会うことは同じです。信仰とは、主に従いえない事態の中で、戦いを始めること、そのような事態の中で目を覚まして祈り始めることです。このように信仰とは内外の誘惑の中で必死に祈りを始めることです。祈りとは、祈りと反対の事態の中で逆らって祈るのです。そして誘惑に直面して、勝利の主を信じて祈ることであります。
ゲッセマネの祈りの主は、祈らない弟子たちのために、祈りたもう主であります。なぜここでイエスは、これほどまでに苦闘されたのでしょうか。わたしたちは、ここに人として苦しまれるイエスが描かれていることを忘れてはなりません。イエスを「まことの神」とだけ知っていて、「神さまは何でもおできになるから」と、平気で祈らない人がいませんか。それこそ讃美歌にあるように「主にのみ十字架を負わせまつり、われ知らず顔にいる」のです。イエスは真の人、私たちと同じ人間なのです。特別な人ではありません。「キリストは神のかたちであられたが、神と等しくあることを固守すべきことと思わず、かえって己をむなしくして、僕のかたちをとり人間の姿になられた。そのありさまは人と異ならず、おのれを低くして死に至るまで十字架の死に至るまで従順であられた」(ピリピ2:6)。主が、十字架の上で負われたのは、ほかでもなく、あなたの罪です。彼が流したのは、あなたのための血です。彼が苦しんだのは、あなたの悪のゆえであります。その苦闘は、神に見捨てられる苦しみです。わたしたちは神に見捨てられることの恐ろしさを知りません。わたしたちは平気で神を見捨てます。しかし、もしそれが逆であったらどうでしょうか。「神がわたしを見捨てる」、それは恐ろしいことではありませんか。神を見捨てることに慣れている不信の者も、神に見捨てられることの恐ろしさに慣れていません。それゆえ主は、今その恐ろしさに身をゆだね、わたしたちの罪に身代わりとなられたのであります。神を捨てる者のために、自ら見捨てられる道をお選びになったのです。皆さん、神を見捨てることはできます、神を罵り、否定することさえ自由にできます。しかし、神を捨てて顧みない者のために、自ら神に捨てられる者となって、苦しまれ、十字架につかれる主を否定することはできません。十字架の主は、背信者の神にほかなりません。主が受けた杯、それは背信者の受ける滅びの杯にほかなりません。主は、彼ら背信者の滅びを飲み込まれたのであります。けれども皆さん、滅ぶことのない生ける主が、滅びを飲み込むことができるでしょうか。しかし、できなければ背信者は滅びてしまいます。今、主はその滅びを飲まれました。それは決定的瞬間でした。「しかし、わたしの意志ではなく・・・」、この「しかし」と言う短い言葉、これこそ絶大な神の愛の奇跡、恵みの頂点にほかなりません。「しかし」、そういわれた瞬間、悪魔の手だてはすべて滅ぼされました。背信者が滅びるのではなく、悪魔がほろぼされました。十字架に向かうところ敵なしであります。「御自身御子をさえ惜しまないで、わたしたちすべての者のために渡された主が、御子のみならず、それにそえて万物をくださらないはずがあるでしょうか」(ローマ八・三一)。皆さん、わたしたちはみなこの「しかし」に支えられているのであります。
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