10月23日「アテネの伝道」説教要旨
使徒言行録 17章 22節〜34節

パウロがギリシアの首都アテネに入ったことは、大変重要な意味があります。キリスト教の真理が、世界の哲学と対決、対話したからです。キリスト教信仰は、迷信ではありません。その意味で、それは理性的批判にも耐えられるものでなくてはなりません。しかし、知識にも、哲学的知識と自然科学的知識と宗教的知識とがあります。客観的知識と実存的知識とがあります。一般恩寵の世界(科学や自然の恵み)と特殊恩寵(イエス・キリストの啓示の恵み)の世界の違いを知らなくてはなりません。自然科学の知識は、対象的知識です。自分を観察者として、自然を研究対象とするのです。そこでは観察者である自分の問題は問われません。それは知識のすべてではありません。「天文学者に無神論者はいない」と言う言葉があるそうです。天文を研究すると、神に到達するという意味ではありません。本当に、科学的に宇宙の真理を勉強している人は、決して神否定にはならないという意味であります。自分の知識の絶対化はいけません。神を知ることが、自分の限界を知らせ、全体の中で、自分の位置を弁えるように謙遜にさせます。真の知識は、自分の置かれた位置を知ることによって、本当の力を発揮します。信仰は、いつもこの神を知る知識によって、知識の傲慢を砕き、その本来の位置にもどすのです。「世界とその中の万物とを造られた神が、その方です。この神は天地の主ですから、手で造った神殿などにはお住みになりません。また、何か足りないことでもあるかのように、人の手によって仕えてもらう必要もありません。すべての人に命と息と、その他すべてのものを与えてくださるのは、この神だからです」(二四節)。
 正しい信仰は、偶像礼拝とは違います。「礼拝する私自身が悔い改めねばらない」ことを教えるからです。その点で、知識万能主義も、偶像礼拝と同じであります。知識が神になっていないでしょうか。神が義をもって世界をさばくとは、この世界の相対性を知らせる、神の力、神性の啓示であります。イエス・キリストの到来によって、私たちのおかれている生は、さばきの下にあります。つまり、あなたがどのように生きたか、完全に明らかにされる時がきます。あなたは悔い改めて神に立ち返らなくてはなりません。知識を絶対視し、自分を絶対視しているかぎり、悔い改めは起こりません。真にこの絶対なる神を知る、「信仰生活は、真のユーモアに近いことを、多くの人は信じません。私たちがあまりにも事を深刻にとりすぎるのは、罪であり、そこから思わない禍いが出てきます。キリスト者は、自ら笑うことができなくてはなりません。その時、無数のこんがらがった事柄は、単純になり、多くの問題もとけてくるものです。この笑い、真のユーモアこそ、私たちの生活の中で、何と健康に満ちた、神によみせられることでしょう」。このゆとり、ユーモアは、ただ自分を神の前に相対化できる信仰にのみなしうることであります。
 そこで私たちは、良く考えてみましょう。私とは、何なのか、この自分は何なのか、無から造られたのではないでしょうか。死人のよみがえりは、無からの創造と関係があります。私たちが神を知ったのではない、むしろ神に知られているのである(ガラテヤ4:8)。このように、悔い改めとは神を知っている自分から、神に知られている自分に立ち返ることにほかなりません。無に過ぎない自分が、こうして生かされていることを感謝して生きましょう。その時、あなたの人生には、苦しみの絶頂でも、笑うことができるでしょう。
   このアテネでパウロが行った「自然神学から、知られざる神、そしてさばき、復活の信仰」に導いたその手法はあざやかでした。しかし、「死者の復活ということを聞くと、ある者はあざ笑い、ある者は、『それについては、いずれまた聞かせてもらうことにしよう』と言った」と、それはあまり成功しませんでした。「パウロはその場を立ち去った。しかし、彼について行って信仰に入った者も、何人かいた。その中にはアレオパゴスの議員ディオニシオ、またダマリスという婦人やその他の人々もいた」。皆さん、成功しない伝道も、がっかりすることはありません。必ず、神はその中に、救われる者を用意しておられるのです。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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