1月1日(日)「初めにあったもの−いのちの言葉」説教要旨
   ヨハネの手紙 一 1章1節〜4節

  「初め」にあるものは、何でしょう。 ヨハネは、それは「いのちの言葉」、「永遠のいのち」だと言っています。「それは父と共にありましたが、私たちに現れました」。すると、ヨハネ福音書の最初に出てくる、「初めにあったロゴス」キリストを指しています。私たちは、ふつう「初めにあるもの」を、あまり問題にしません。確かに「目に見えるもの」、「手で触るもの」を問題にしますが、それは初めあったものではありません。いつも目先のもの、今日あるもの、すぐ役に立つものを問題にします。しかし、「すぐに役に立つ本は、すぐに役に立たなくなるものだ」と言われます。ところが、ここでは初めにあるもの、「根源にあるもの」、それが問題になっているのです。皆さんは、自分が何のうえに立っているのか考えたことがありますか。現在、子供を教育するにも、目先のことばかり教えます。今、どういう大学に入るか、今行っている学校でいい成績をとるか。しかし、目先の効果ばかりねらったもの、それは、いつか役に立たなくなります。こうして私たちはふつう、自分たちの生の根源にまでさかのぼることをしません。ただその日その日の事柄だけ、あるいはせいぜい二、三年の期間内で役に立つことですませていないでしょうか。それはちょうど根本的手術や治療をしないで、モルヒネや痛み止めでごまかしている病人に似ていませんか。教育だけでなく、政治、経済みなそうです。政治家に哲学がありません。経済はどうでしょう。政、官、財癒着構造のために、大問題が起こっています。 今、ここで信仰者はその根源を教えられます。それは「いのちの言葉(キリスト)」です。私たちの根源には、ただ法則や物質があるだけでなく、それらを造り、動かす、生きた人格的な言葉をもつ神がおられるのです。この言葉は、肉体をとって現れ、救い主イエスとして示されました。救い主こそ、「いのちの言葉」にほかなりません。現代は確かに言葉の氾濫している時代です。ちょっと町を歩けば、どこからともなく言葉や声が耳に入ります。大声でどなるのもあれば、やさしく猫なで声でさそいかけるものもあります。まさに情報、宣伝の時代です。しかし、それはいささか多すぎます。そのためか反面、世代間で言葉が通じなくなったり、親子で互いに断絶ができ、ある時は、暴力に走ります。無意味な言葉や事務的な言葉、自己主張の言葉は多くあっても、「いのちの言葉」が欠けているのではないでしょうか。ところが、このいのちの言葉は、からだをもち、そのからだで私たちを愛し、さらに自分を捨てます。真の愛にのみいのちがあります。それは「父と子」の交わりの中にあり、また私たちを交わりの中にいれ、いのちを吹き込むのです。つまり父なる神と子なる神の交わりです。
 そこで初めて、ここでこの証人が、ひとりで「私」とは言わず、「私たちは見た、私たちは手でさわった・・・」と複数でいう意味が分かってきます。信仰告白する時は、「われは信ず」ですが、証人の場合、複数です。聖書の真理、信仰の真理は、私一人(単独者)の真理であります。つまり、一個の人間が自己の実存をかけた真理にほかなりません。しかし、それは決して一人よがりなものではなく、同時に客観的な真理でなければなりません。多くの証人が見、聞き、体験したことなのです。伝える真理も、「父と子の交わり」ですから、証人も複数の交わりの中で、真理を伝えます。一つと二つ、絶対に自分のみひとりで信じ、誰かと相談して信じるのでありません。しかし、そのひとりは、二人です。そうです夫婦です。そこには対話があります。対話のない一人は、独裁者です。一つと二つは、さらに三つになります。三位一体の神です。もう一つが必要です。聖霊です。 「神は光であって、その中にはいささかも暗いところはありません。もし私たちが神と交わりをもっていると言いながら、暗い中を歩んでいるのなら、私たちは偽っているので、真理を行っていません」。この光は、聖霊と見ることもできます。ふつう対話は断絶します。なぜなら、人間の罪があるから、罪は、自分を独裁者にします。エゴイズムにします。そこに分裂が起こります。それゆえ聖霊によるとりなしを必要とします。だから、礼拝の最後の祝福の言葉は三位一体なのです。聖霊の交わりです。私たちがどう祈ったらよいか、わからない時、聖霊が言いがたき嘆きをもってとりなすのです。一から二、そして三位一体への真理です。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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