1月15日(日)「乙女の祈り」説教要旨
   マタイによる福音書 25章1節〜13節

  信ずる者とはつねに二つの国に生きている人のことです。一つは永遠の国、今一つは地上の国。しかし、この二つは別々のものではなく、互いに関係をもって、入り組んでいます。この二つが、たえず緊張した関係にある時のみ、信仰は生きた力のあふれるものになります。弓を射る者は、目標をしっかりと見定め、同時に自らの姿勢を正します。この二つが一つになった時、正しく目標を射ることができます。そのように、信仰も、永遠を忘れて地上に執着する時、世俗主義に堕落し、反対に、地上を忘れて、永遠に逃れる時、抽象的になります。真の信仰とは、このたとえのように、暗い地上にあって、永遠の光を点じることにほかなりません。したがって、信仰とは待望です。待望の時の中心はキリストににあります。ふつう時間は過去から現在、現在から将来へと流れると考えられるでしょう。しかし、今このたとえの示す時の理解は、それとは正反対です。十人の少女は花婿(キリスト)がくるのを待っています。ここには来りべき時を待つ、待望の生活が描かれています。待望する者にとって、時はもはや過去から未来へと流れません。時は、将来から現在へ、そして過去へと逆に流れます。今の時は、過ぎ去ってゆく時ではなく、来るべき者を待ち望む、緊張と期待、約束と成就の時であります。イエスの福音は、「時は満ちた、神の国は近づいた」です(マルコ1:15)。この時には神の国という目標があり、すべてはそこに向かって進んで行きます。一刻一刻、毎分毎秒が、この来るべきものに向かって満たされて行く時です。キリスト再臨への期待と待望は、初代教会の中心的な信仰となり、「主イエスよ、来りたまえ」は、その祈りの中核となります。信仰は再臨待望が失われる時、ただ現実を追いかける、その日ぐらしの信仰となるでしょう。しかし、反対に来るべきものに期待する信仰は現実の打算を越えて、見えない永遠の神を今あるものとして生きます。歴史をつくる神、それは現実を変え、自己を変え、世界を変革でずにはおかないもの。このように見えないものを真として生きることほど、力強いものはありません。信仰とは、この地上に足を踏まえつつ、しかも天の一角をにらみ、決して地のことに動かされないことを言います。そしてキリスト再臨待望には、さらにそれに期待がともなっています。
 私たちの時は、一つの目標をもちます。イエス・キリストです。このお方は、全くの自己放棄をし、世のために生き、貧しい人を愛し、人類の罪のために死に、他者の苦悩を自らの苦悩として生き抜き、神の愛に徹し、まさに神の愛を具現したイエス・キリストです。彼はこの歴史上に三十年という足跡を残し、十字架に死にます。それは過去のものでありながら、永遠の意味をもって私たちに迫ってきます。そのお方は、私たちの信仰の目標となります。この愛の主の到来、それがキリストの再臨、神の国です。この愛の主の姿、それは私たちの信仰の目標であり、世界の来るべき姿であります。あなたは、この目標に向かって一歩を進めなくてなりません。今日の一歩がたとい崩れやすいものであっても、小さいものであっても、それがこの永遠の国に向かう一歩であることを堅く信じて。ここで待つ十人のうち五人は賢く、予備の油をそなえ、五人は用意していません。それは信仰と不信仰の違いではありません。本当の信仰と偽りの信仰の違いです。二つは外見的には、全く違いないように見えます。どちらもあかりをともし、花婿を待ち、そして眠ってしまいました。ただ一つ違いは、予備の油を用意したかにあります。 真の信仰とは、ただ単にあかりではありません。隠れた用意の油です。携帯用ランプには油は少ししか入りません。そのように信仰の貯蓄はできません。私たちの人間の行為というあかりは、いつか消えるでしょう。輝かしい光でも、「油を少し分けてくれませんか。私たちのあかりが消えますから」と言わなくてならない時が来るでしょう。「もし私たちの生涯の終わりに、自分の人生を振り返って、それが永遠に向かっているなら、幸せです。人は一度しかこの世に生まれてこないのだから」(キルケゴール)。たとい私たちのあかりが消えそうになる時でも、つきない上からの油を用意している人は幸いです。私たちのちぽけな油に頼りきってはなりません。「油を分けてください。私たちのあかりが消えますから」という時が来ます。必ず来ます。しかし、その時は、失望落胆の時ではなく、「さあ、花婿だ、迎えに出なさい」という時です。その叫びは、あたかも太平の眠りをさます覚醒の声として、真夜中で、皆うとうとして寝入っている時に響いて来ます。その時に問題になることは、私たちがあかりをかかげたことでもなく、うとうと寝入ってしまったことでもありません。ただ予備の見えない油をもっていたかが問われます。あの見えないもの、来るべきお方だけを相手としてきたか、そのことだけが問われます。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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