1月29日(日)「中風のいやし」説教要旨
   マルコによる福音書  2章 1節〜12節

   病人を床のままかついで、みんなの前を歩いて行くには、みっともないとか、恥ずかしいといった気持ちを乗り切らなくてはなりません。パウロは、「わたしは福音を恥としない」(ローマ1:16)と言いましたが、ここには「恥ずかしがらない信仰」があります。本当に信じ、愛を実践する人は、他人を見たり、恥ずかしがったりしては何もできません。ただキリストだけを見てまっすぐに進んで行きます。しかし、このような堅い信仰も、行く手に邪魔物が入りました。「群衆のためにイエスのもとに運び込むことができませんでした」。つまり、大勢の人が我勝ちに、自分こそ先にいやしてもらおうとして押し合いへしあいしています。ともかく大群衆が押し合いへしあいして、このかわいそうな中風の病人に道をゆずろうといたしません。私たちの信仰を邪魔するものは、いわば大衆社会のエゴイズムでした。わたしたちの信仰には必ず邪魔ものが入ります。信仰者の道は、決して平坦ではありません。けれどもこの熱心な信仰の人びとは、それくらいのことで、とまどったりへこたれたりいたしません。「そこでおられたところの屋根をはがして、壊し、中風の人の寝ているまま床を吊り下ろしました」。何と大それたことをするのでしょう。乱暴と言おうか、大胆不敵といおうか、ともかく、彼らは横からの道がふさがれると、今度は上からの道を見いだしたのです。イエスは夜中に来た友人のために、隣人の扉を叩くたとえ(ルカ11:8)で言いました、「友人だからというのでは起きて与えませんが、熱心に願うので、起き上がって必要なものを与えます」。熱心な願いとは、大胆不敵な、なりふりかまわない熱心さをいうのです。わたしたちはいつも自分の弱さが気にならないでしょうか。しかし、イエスはわたしたちのそういう弱点をごらんになりません。ただ熱心さだけをごらんになります。信ずることなら、熱心さだけなら、だれにもできることではないでしょうか。このような熱心な信仰は、道のないところに道を開きます。「さばくに川を流れさせ、砂原にサフランの花を咲かせます」(イザヤ35:5以下)。そしてイエスは、彼らのこの信仰をごらんになります。「イエスは、彼らの信仰を見て、中風の人に言います、『子よ、あなたの罪はゆるされています』」。イエスは外でもなく、ただ彼らの信仰をごらんになります。学歴も、お金も、経験もごらんになりません。ほかの何もごらんにならず、信仰だけをごらんになります。ただこの熱心な、協力の信仰だけをごらんになります。そしてイエスは、このような「沈黙の行動」に、つぎのような「沈黙の行動」をもって答えます。ところが律法学者は「この人は、神を冒涜している。神おひとりのほかに、いったいだれが、罪を赦すことができるだろうか」と言いました。イエスは「中風の人に『あなたの罪は赦される』と言うのと、『起きて、床を担いで歩け』と言うのと、どちらが易しいか。人の子が地上で罪を赦す権威を持っていることを知らせよう。そして、中風の人に言われた。『わたしはあなたに言う。起き上がり、床を担いで家に帰りなさい』」と。その人は起き上がり、すぐに床を担いで、皆の見ている前を出て行きました。人びとは驚き、「このようなことは、今まで見たことがない」と言って、神を賛美しました。律法主義者、原理主義者はただけちをつけ、論じるだけで、そこには信仰の事実、現実が起こりません。しかし、イエスは病をただちにいやされました。しかし、なぜ「あなたの病はいやされた」と言わず、「あなたの罪はゆるされた」と言われたのでしょう。人びとは、からだの病気ばかりいやしてもらいたいと思い、心に深い罪をたたえていることを忘れています。ここで、この病人は、その病気になったのが、彼自身の不摂生とか、乱暴にからだを使ったとか、その病気になる罪があったと言うのではありません。イエスが「地上で、罪をゆるす権威をもつことがあなたがたに分かるために」であります。私たちの誤りは「病のいやし」と「罪のゆるし」を完全に分けて、「病のいやし」は、病院に、医者に、「罪のゆるし」はキリストにとすることです。イエスはこの二つをわけないで、ご自身が罪のゆるしの権威をもっていることの証拠に、「病のいやし」を行いました。それは二つの全く別々のことではありません。イエス・キリストにおいては、この二つがしっかりと結びついています。罪がゆるされる解放なしに、病気からの解放は、片手落ちです。科学的治療の中にも、「罪のゆるし」の問題がなければなりません。心の解放なしに、からだのいやしを行うことは邪道です。「医術」という術になり、そこに生きた人間のいることが忘れているのは、現代医学の欠陥ではないでしょうか。イエスがここで、「罪のゆるし」の権威をしめすために、治療をおこなったことは、そのような深い意味があります。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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