2月5日(日)「初めに言葉あり(言語論)」説教要旨
   ヨハネによる福音書 1章 1節〜4節

  「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」
  これはキリスト教が、初代において、ギリシア哲学と出会った最初の、すばらしい言葉です。言葉(ロゴス)は、単に理性でなく、ここでは「語りかける言葉、呼びかける愛の言葉」ではないでしょうか。テュービンゲン大学にきわめて優秀な日本人で、ドイツ語の堪能な留学生婦人がいました。彼女はドイツ語の才能はずばぬけて、ドイツ人も驚くほどでした。しかし、脳の病気をし脳の手術をうけて、手術は成功したのですが、あれほどできたドイツ語がしゃべれなくなりましたが、不思議なことに日本語はもとのまま自由でした。どうしてでしょう。その理由には、次のことが参考になります。シュヴァイツアー博士は、アルサスローレンのというドイツ語とフランス語のバイリンガルの地で生まれましたが、「真の意味のバイリンガルはない」と言っています。どちらの言語で思考しているか、思考している方の言語が、その人の母語なのです。それを裏付ける三つの例があります。
  1 ドイツ人と結婚した日本婦人が、ドイツ語はぺらぺらなのに、魂の安らぎのためには、日本語の説教を求めます。2 ドイツ語の非常によくでき、ドイツ人と結婚した日本婦人が、五十過ぎて鬱病になった。医師は日本語を話さなかったので、日本語をつかさどる脳の機能が損傷した、日本人の牧師さんを呼んで、カウンセリングしてもらいなさいと言いました。3 ドイツ人の歯科医師と結婚し、子供も三人くらいある、ドイツ語もべらべらな日本婦人が、子供が大きくなって、家族の会話にはいれず、かといって、日本に来たら、ドイツ人と見られ、孤独で苦しんでいました。最後に宗教だといって頼ってきました。
  NHKの番組で、言語はただ伝達の表現だけでなく、その背後に「根底にあるもの」がる。それが大切だと言っていました。それは私がドイツで経験したことと一致します。語学が得意でべらべらしゃべっても、内容がない人はだめです。私はそれで「道元」と「西田幾多郎」をもって行きました。そしてこの日本の思想を媒介として、ドイツ人と対話ができ、今でも付き合っているクルヴェさんという人がいます。
   「初めに言葉があった。言葉は神と共にあった。言葉は神であった」
  第一に、原言語というものがある。それは人間の根底を支えるものである。アルベルト・シュヴァイツァーは、真のバイリンガルはないと言った。どの言語で考えるかです。第二に、その言語の根底にある真の存在がある。ハイデッカーは「言語は存在の住処」と言いました。それは「生きた言葉」。「愛語よく廻天の力あるを学すべきなり」(道元)。その意味は「愛ある言葉は、天をも動かす力があることを学びなさい」ということです。
  「初めに言葉あり、言葉は神と共にあり、言葉は神なりき」、「すべてのものはこれによりてできた。できたもののうち、一つとして、これによらないものはなかった」。このロゴスは、ただ言葉ではありません。生きた原言語です。生きた言語とは、1 沈黙の背景がある。 2 語りかける言語、 3 対話する言語 4 心からなる愛の伝わる言語です。「言葉は神と共にあり」。この「神と共に」は、原語のギリシア語で「プロス・トン・テオン(神に対座して、向き合って共に、対話しつつ、同じ場所に)」の意味であります。それゆえ、「言葉は肉体をとって、私たちの間に宿った」、この生きた言葉は、私たちの現状況となったのです。「おりにかなって語る言葉は、銀の彫り物に金の林檎をはめたようだ」(箴言25:11)。
  ここには生きた対話が生まれる、生ける神三位一体の神がいますのです。そして、1 対話は真理探究の手段、ソクラテス産婆術、プラトンの対話編、しかし、私たちはそれを神とのかかわりで考えます。2 教育は対話、教育はすぐれた者が下の者を教えるのではありません。対等です。 またそれは 3 病める人のいやしにつながります。ただ病める者との対話は、聞くことが8割で、語ることが2割です。対話は言葉のキャッチボールです。球を投げて、それが受け取られ、また向こうから投げてきて、自分が受け取るのです。この生きた対話の中に、生ける三位一体の神が臨在されるのです。「言葉、肉体をとって私たちの間に宿られる」真理です。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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