2月19日(日)「キリストのからだ」説教要旨
       コリントの信徒への手紙一 12章4節〜31節

  人間には精神だけでなく、からだがあります。一個の人間だけでなく、共同体もからだです。からだのない信仰はなく、キリストのからだなる教会なしに信仰はありません。しかし、今、聖書は、このからだを賜物から理解しています。私たちには、賜物(原語のギリシア語で「カリスマ」)があります。カリスマは、カリス(恵み)から来ています。現代日本語では、カリスマは特殊な天才を表しますが、聖書では、すべての人にカリスマ(賜物)が与えられています。私たちの中で、何も与えられていない人がいるでしょうか。「私なんか、どうしようもない駄目だ」と言いませんか。とんでもありません。「すべてにおいてすべてを働かせる神は同じです。御霊の現れが各々に与えられているのは、みんなの益のためです」と書いてあります。この賜物は、誰から来るのですか。神さまからです。 「すべてにおいてすべてを働かせる神は同じです」とあります。 「すべて」です、あなたも入ります。確かに賜物に違いはあります。あとで目や、手や耳の例であげているように、賜物にはいろいろ違いがあります。筋ジストロフィーの人が、「私の病気は、神さまからの賜物です」と言いました。その時、彼らは病気を克服し、詩を作り、映画を作り、自立ホームを完成しました。パウロは、人間のからだを例にひいて、正しい共同体の在り方を説明しています。つまり人間は「多と一」からなりたっている、無数にある人類も、キリストをかしらとする有機的なつながりで、互いはそれぞれ違った機能を持ちながら、一つの目標に召されているのです。それだけではなく、互いが互いを必要としており、一人だけではなりたたないのです。助けあっているのです。「からだのすべての肢体が多くあっても、からだは一つであるように、キリストの場合も同様である。なぜなら、私たちは皆、ユダヤ人もギリシア人も、奴隷も自由人も、一つ御霊によって、一つのからだとなるようにバプテスマを受け、 そして皆一つ御霊を飲んだからである」。私たちが一つなのは、生まれつきそうだと言うのではなく、神さまの聖霊を通して一つにまとめられているからです。自然の姿では、それぞれ性格も、性別も、職業、国籍も違いながら、神が一つであり聖霊が一つであり、バプテスマによって結ばれているからなのです。それでこのキリストの教会は、全人類を一つに結ぶ、大切な役目を担っています。教会は全人類が一つにまとめられることの模範であり範型なのです。 けれども違う者はしばしば反目しあいます。「足が、私は手ではないから、からだに属していない」と。手は手としての良さを持っていますが、また反対に、手では見ることも、嗅ぐことも聞くこともできません。このように私たちは、互いにその良さとともに、弱点を持っています。とかくその良い点は、強さであり、誇りであり、他に対する優越となります。その時、私たちは他者を必要としないと思い上がる人間にならないでしょうか。その時、キリストのからだは崩壊します。 「人」という字を見てごらんなさい。二つの棒が互いに支えあってできています。しかも、その棒の長さは、それぞれ違っています。長いほうだけが、短いのを支えているわけではありません。実に、短いのが長いのを支えています。両方とも長かったなら、ぶつかりあって喧嘩するのが落ちです。短いのが長いのを支える真理こそ、キリストのからだの真理です。私たちは筋ジストロフィーの病棟に伝道にゆき、しまいにはその車椅子の兄弟たちが洗礼を受け、いっしょに礼拝するようになりました。その時、私たちはその障害の兄弟によって力づけられ、励まされたことが何度あったことでしょう。「相違を越えた一つ」と言うキリストのからだの真理を忘れて、力の原理が支配するなら誤りです。「むしろ、からだのうちで他よりも弱く見える肢体が、かえって必要なのであり、他よりも見劣りがすると思えるところに、ものを着せていっそう見よくする。麗しくない部分はいっそう麗しくするが、麗しい部分はそうする必要がない。神は劣っている部分をいっそう見よくして、からだに調和をお与えになったのである。それは、からだの中に分裂がなく、それぞれの肢体が互いにいたわりあうためなのである」とあります。「弱く見える肢体がかえって必要なのである」と、これは「はるかにもっと必要だ」と言っているのです。共同体で必要なのは、この弱さです。弱い部分をもたない共同体は病んでいます。またここで、「他よりも弱く見える肢体」とか、「他よりも見劣りがすると思えるところ」と注意深く表現しています。それはただ人間にとって、愚かな心にそう映るだけなのです。それらは、人間の目に、弱く映り、人に見劣りがすると思えるのであって、神の目から見ての話ではありません。そしてそのことは、またあなた自身にも言えるのです。自分がいつも劣等感に悩む人は、それが自分にとってそう見えるだけだと言うことを忘れないようにしましょう。しかもあなたにとって見劣りがすると思えるところに、神はかえって必要だと言い、そこを見よくするどころか、優遇さえしてくださるのであります。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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