2月26日(日)「ナルドの香油」説教要旨
       マルコによる福音書 14章3節〜9節

  ベタニヤで一人の婦人が、高価なナルドの油をイエスの頭に注いだ記事は、祭司長や律法学者たちの、イエスを捕らえ殺そうとする計画と、イスカリオテのユダが、イエスを売り渡す裏切りとの間に記されています。銀三十枚で、その師を売り渡すユダと、三百デナリもの高価なものを捧げる婦人とは、取る精神と捧げる精神の対比です。「取る」というのは、世俗の精神です。それに対して「捧げる」とは、この世の精神とは正反対。自分のものを、自分の身を切って与えることで、宗教的精神です。石膏のつぼの香油は、王や貴族への贈り物です。そして「キリスト(メシア)」という語は、もと「油注がれた者」の意味でした。この女性のささやかな行為は、王なるキリストへの捧げ物です。私たちはここで、誕生のとき、あのクリスマスの時、東の博士たちが、ユダヤ人の王としてお生まれになった方に、宝物を捧げたことを思い起こします。馬小屋の誕生と十字架の死、王、捧げ物、そこには何か深いつながりがあるように思います。このお方、王なるキリストを告白するために、私たちは捧げ物をもってしなければなりません。この高価な捧げ物によるキリスト告白によって、この女性は、権威者たちの策略に上回っていたのです。「あなたがたが十字架につけるイエスを、私は王なるキリストと言い表します」。こうしてこの女性は、権威者たちに勝利したのです。
 ナルドの香油は、外国からの輸入品で高価でした。匂いが逃げないために、石膏の壷にいれて、使うときだけ、それを割って用います。それはいわば一回限りです。確かに無駄といえば、無駄でしょう。三百デナリは労働者が一年分の給料です。しかし、考えを変えて見れば、この婦人は長い間祈りに祈り、貯めに貯めて、この日のために、用意していたとも言えます。それはイエスの十字架に向けて、心からの愛の現れと言えるでしょう。それは香油のように、まじりけない純粋の行為です。ところが「ある人びとが腹を立て、互いに言いました、『何のために香油を、こんなに無駄使いするのでしょう。 この香油を三百デナリ以上に売って、貧しい人びとに施すことができたのに』。こうして彼らは女を激しくとがめました」。しかし、弟子たちの怒りよりもイエスの愛ははるかに上回っていました。イエスはこの女性の行為を称賛しました。普通、常識から考えたなら、「無駄だ」という意見は正しいでしょう。しかし、そこには効率社会の論理がまかり通っているような気がします。効率社会は、それが無駄であるか、どうかで価値の判断をいたします。しかし、その無駄とは、投下した資本に対し、どれだけの利益を上げたかといった価値観です。言ってみれば、物質的価値観です。けれども、そういう効率的価値観で見た時、キリストの十字架はどうでしょうか。正しいことをし、多くの病める人びと、苦しむ人びとのために日夜労苦し、最後にエルサレムで死をも覚悟して赴く、それは全く効率の悪い死に方です。それどころか、イエス・キリストにならって、殉教した人びとは、全く効率の悪い死に方をしたのではないでしょうか。それだから神は、あのローマの迫害の時代、一人の殉教したキリスト者の血から千人の新しいキリスト者を生み出させてくださったのです。全く効率の悪い精神的生きざまから、神が生み出させてくださる効率ははかりしれません。今日は、どこもかしこも宣伝と効率の世の中、ここでこそ「彼女をそのままにしておきなさい。なぜこの人を困らせるのですか。わたしのために善いことをしてくれているのです。貧しい人びとは、いつでもあなたがたといっしょにいますから、したい時に、よいことをしてあげられます。しかし、わたしは、いつでもあなたがたといるわけではありません。この人はできるかぎりのことをしました。わたしのからだに香油を注いで、あらかじめ葬りの用意をしてくれたのです。ほんとうにあなたがたに言います、全世界のどこでも、福音が宣べ伝えられるところで、この婦人のしたことも、記念として語られるでしょう」。こう言われたイエスの言葉の重みを深く味あうべきではないでしょうか。「記念として」というのは、聖晩餐の時、「わが記念としてこれを行え」とあります。記念とは、出来事の再現です。この婦人のした行為を、信仰の出来事として、あなたの行為として再現しなさいと言うのです。それはその後の、また私たちの無駄な努力、奉仕を神が覚えてくださることの象徴、出来事としての証しであります。想起の神学、想起の信仰です。宣伝は一時です。しかし、想起は永遠に続きます。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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