3月5日(日)「得たりと信ぜよ」説教要旨
   マルコによる福音書 11章19節〜26節

  イエスの十字架が近づくと、象徴的行為(行為による証し)が多くなります。今日のいちじくの木の話は、象徴的行為です。いちじくの木は、パレスチナ地方にはよく見られる果実で、日本のいちじくとは違い、大きいのは高さ八メートルにものぼると言われます。「翌日、彼らがベタニヤから出かけてゆくと、イエスは空腹になりました。そして遠くから葉の茂ったいちじくの木をごらんになって、その木に何か見つかりはしないかと、そこに行きましたが、葉のほかは何も見つかりませんでした。 いちじくの季節でなかったからです。そこでイエスは、その木に答えて言いました、『今から後いつまでも、お前の実を食べるものがないように』」。いちじくは普通六月に実がなります。過越の祭りのころは、確かに時期ではありませんが、四月ならまだ冬を越した実が少数ながら見られると言われます。したがって時季外れに、実を求めたイエスの態度は、決しておかしいことではありません。しかし、ここでイエスは何か食べたかったのではなく、イスラエルの宗教の退廃を嘆かれたのです。都は、葉の茂ったいちじくのように、遠くから見ると盛んで信仰心もあついように見えました。祭りのにぎわいは、それを表しています。けれども近くによって見ると、実のない形ばかりの信仰でした。
 イエスはいちじくの木と「祈り」をかけて説明します。祈りこそは、この形式化した宗教行事をきよめ、内容あるものとする唯一の信仰の表現です。イエスの生涯は、祈りで貫かれています。まず主の祈りを教え、しばしば、静かなところに逃れてひとり祈っておられます。十字架の時もそうでした。そこには神との語り合いがあります。もちろん神殿でも祈りはあったでしょう。しかし、形式化したもので、そこには人間の言葉ばかりで、神はご臨在しません。それでイエスは言われます、「神への信仰をもちなさい。 ほんとうにあなたがたに言います、誰でもこの山に、『立ち上がって、海の中にとびこめ』と言って、その心の中で疑わず、語ったことはなると信じるなら、そうなります。それゆえにあなたがたに言います、すべて祈り求めることは、すでに得たりと信じなさい。そうすればその通りなります」。ここで大切な言葉は、「神への信仰」です。直訳すると「神の真実」となります。あなたはいつもハンカチーフをもつように、「神の真実」をもっていますか。「神は信じている」と言う人は、大勢いるでしょう。しかし、たいがい「神の真実」をもっていません。つまり多くの人は、神がいないかのように生きています。日曜日の朝になって、初めて神を思い出す、しかし、日曜日の朝だけ食事する人はいないでしょう。毎日毎食、食事するように、わたしたちは、神の真実をもっていなくてはなりません。賛美歌に「慈しみ深き、友なるイエスは、かわらぬ愛もて、導きたもう、世の友われらを捨て去る時も、祈りに答えて、いたわりたまわん」とあります。これこそまさに「神の真実」ではないでしょうか。イエス・キリストが最後に「ごらんなさい、わたしは世の終わりまで、あなたがたといっしょにいます」(マタイ二八・二〇)と言われました。これが「神の真実」にほかなりません。そして「神の真実をもちなさい」とは、このようにどんな時にも、わたしたちから離れることのない生きた神を自分のかたえにもつことです。イエスが言うように、祈るとき、そこにそれを邪魔する、障害である山があります。決して動かない山が立っています。しかし、祈りはそれを越えて行きます。それは不可能を可能にする道であります。ブルームハルトは言いました、「神の言葉が、神の言葉として理解される場合、神ご自身が現にそこにいまして、この事実を生ぜしめたもう」と言っています。
  しかし、わたしたちはそのことをすでにかなえられたと信じているでしょうか。「祈りは燃えるような期待をかけるものでなければなりません。わたしたちにおける難点は、わたしたちが神から求めているものが、いつも自分自身の答えであることです。そしてそれが得られない時、きまってそこに与えられる神の答えを認めようとしないのです」。これが祈りの障害でなくて何でしょう。障害たる山は、外の世界にあるのでなく、祈るあなた自身にあったのです。神は「わたしの思いは、あなたがたの思いとは異なり、わたしの道は、あなたがたの道とは異なる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ五五・八)と言われます。常識の延長線上で祈っているような祈りではなく、思いはからないことが、向こう側から来ることに期待する祈りこそ、イエスがここで求めている祈りであります。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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