3月12日(日)「その人を知らず」説教要旨
   ルカによる福音書 22章 54節〜62節

  「その人を知らず」という小説がありました。それは戦争中のホリネス教会の弾圧を背景とした物語です。私は現実にその中にいたら、本当に「その人を知らず」と言ってしまうのではないかと思います。自信がありません。けれども、キリスト者に要求されている真の勇気は、ペテロのように剣で切りつけることではなく、主と共に、苦悩と恥辱とを忍び通すことです。悪魔は武装しています。そして悪魔の武装は、信仰者の持つ二振りの剣よりもはるかに強いのです。悪魔の力は、人間の善意や、信仰者の正義の叫びよりもはるかに強いのです。しかし、悪魔にはたった一つ弱点があります。それは時を支配できないことです。「毎日私は神殿であなたがたといっしょにいた時には、私に手を伸ばさなかったのに、しかし、今は、あなたがたの時とやみの権力の時です」。悪魔の支配する時、そういう時が、私たちの人生にもないでしょうか。けれども、「やみの時」、それは夜が明けるように、明るい昼の大陽と共に消え去るでしょう。悪魔は一時勝つかに見えます。しかし、いつまでも永久に支配することはできません。「あなたは十日の間、悩みを受ける。死に至るまで忠実でありなさい。そうすれば、いのちの冠を与えましょう」(黙示録1:10)。悪魔の荒れ狂うのは十日間です。その間じっと神の勝利を信じて、待つ者には勝利の冠が与えられるのです。ペテロは、確かにイエスについて行きました。「自分の十字架を負って、私に従ってきなさい」と言うようについていったわけではありません。「ペテロは、ついて行ったことは行きました。それは愛からです。しかし、遠くから、それは恐れからです」。信仰と利己心、服従と恐怖、一体誰が、どこに、このような二つの入り交じっていない信仰など見られるでしょうか。信仰はいつも、このような誘惑と動揺の中にあり、ある意味で動揺の中にあるからこそ、信仰が信仰なのだと言えます。ペテロの誤りは主イエスを眺めていたことです。「観察」していたと言ってもよいでしょう。彼は主を信じ、告白していません。確かに平穏無事の時には、「牢屋にでも、死にでも」と景気のよいことを言っていますが、しかし、いざ危機の時になって、告白しません。そこには、主体を賭ける信仰はありません。人間は、そのままにしておくと、いつの間にか自分だけになります。そして一歩一歩、奈落の底に落ちて行きます。ペテロは肉体的には、イエスと接近していました、恐らく三十歩と離れていないでしょう。「まことに霊は燃えても、肉体が弱いのです」(マタイ26:4)おお、イエスに近づく者らが、何とイエスから遠くへだったっていることでしょうか。「主よ信じます、信仰のない私を助けてください」(マルコ9:24)。ペテロは焚火の中に座っていました。キリストの弟子としてではなく、匿名の人として座っていました。そっと隠れて信ずることはできません。そのような人には、主もまた隠れたもうでしょう。たというまく隠れて生き延びようとしても、その人は自分自身を見失うでしょう。「自分のいのちを得ようとする者は、これを失う」。自己保全だけを考えて生きる信仰は、自己喪失に至るのです。「狭い門からはいりなさい。滅びに至る門は広く、それから入る人は多いのです」。いのちに至る門は狭いのです。ペテロは今、世俗の中で世俗と同じ姿をして座っています。塩からみを失った塩は、外に捨てられ、人びとに踏まれるだけです。告白者が一人あればよいのです。「あなたがたが、私の祭壇のうえにいたずらに火をたかないように、戸を閉じる者が、あなたがたのうちに一人あったらよいのだが」(マラキ1:10)。一人の告白者を通して、主は事をなしたもうでしょう。それは必ずしも勇者である必要はありません。世界最大の卑怯者、臆病者でもよいのです。主は、卑怯者、おおぼらふきを用いられます。主は最後には、その弱いペテロをお用いになるし、疑うトマスをもお用いになります。そのような者らが主の最初の弟子たちであったとは、何と慰めに満ちたことではありませんか。「主は振り向いて、ペテロをじっと見つめました。 そしてペテロは、にわとりが鳴く前に三度、私を否定するでしょうと彼に言った主の言葉を思い起こして、外に出て激しく泣きました」。ペテロは、主の言葉を思い起こしました。そして主は振り向いて、ペテロをじっと見つめました。そして彼の信仰は前もって主に祈られているように、その主の信仰によって支えられているのです(22:32)。もしあの弾圧の嵐の中で、信仰を維持できるとすれば、それはその時、現場で、神の聖霊が働き、「どう祈ってよいか分からない」私を「言いがたき嘆き」をもってとりなしてくださるからです。(ローマ8:26)。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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