3月19日(日)「宗教は必要か」説教要旨
   ガラテヤの信徒への手紙 4章 3節〜9節

  ドイツで、国民の倫理道徳の確立のために教会が必要だと言った人がいます。その場合、宗教は手段になっています。「宗教」の「宗」は根本的という意味、それは大本になるもので、そこから自分の人生が考えられ、自分の人生を根本的に変えるものでなければ、宗教の名に値しないでしょう。「無に出会った時、私たちの態度を決定する認識と行為が宗教です」。「無」とは「死、絶望、罪」です。この三つに出会う時、人は宗教を求めます。仏教のように、「無」をそのまま認め受け入れる、解脱という方法の宗教もあります。有にあらず無にあらず、有無を越えた空(スンヤータ)の悟りです。キリスト教やユダヤ教イスラム教のように、神に救いを求める、他力があります。仏教の中にも、浄土宗のように、「阿弥陀仏による」他力があります。キリスト教は、この無を受け入れるのではなくて、克服するのです。「死からの復活」です。以上三つの無について考えましょう。
 1 死、これは誰にでも出会うことです。死は、若い人、老人にかぎらず来ます。しかし、年を取ると、いよいよ切実になってきます。死に鈍感な人でも近親、友人の死で突然出会うと、「死とは何か」考えざるをえません。私の知っている画家も、かなり傍若無人の人生でしたが、死の直前、牧師を呼びました。死の問題は永遠がないかぎり、解決しません。「わたしはいのちであり、よみがえりである」という方、永遠絶対なるお方が、今、相対的な私たちのもとに来た。それがイエス・キリストの救いの真理です。私も死をなかなか解決できませんでしたが、牧師という仕事の関係上しばしば死ぬ直前直後の人に出会って、「復活の信仰」に達しました。
 2 絶望、絶望や失望は、毎日ころがっています。絶望とは「愛の不足」です。自殺というのは、絶望の極です。しかし、愛する人のある人、愛されていることを感じる人は、自殺しないと言われています。人間の愛は、限りがあります。しかし、ここに神の愛があります。「人間に絶望したことのない人は、愛したことのない人だ」とジイドは言いました。イエスは、すべての絶望を身に受けました。弟子は皆逃げ、ペテロは「その人を知らず」と言いました。イエスはこの絶望の中で、人を愛し続けました。十字架の上で「父よ、彼らをゆるしてやってください。そのやっていることが分からないのですから」と祈りました。ここには、相手の罪をもゆるす崇高な愛があります。このイエス・キリストの愛にふれる時、私たちは絶望を越えるでしょう。
 3 罪、罪とは悪のみにとどまりません。その悪が善の皮をかぶっています。パウロはこの「善の中に宿る罪」を、「善を欲する我に悪をなすことを見いだした。心では善を欲しながら、行いでは悪をなす」と表現しました、この自己矛盾、それこそが罪であります(ローマ7:19)。そしてゆるしが十字架を通して来ることを見いだし、「十字架のほかに誇るところなし」と言い切りました。自分が罪を感じつつ、もっと深い罪を犯す時もあります。しかし、そこにゆるしがある時、かえって罪を感じます。それはすでに「ゆるされた罪」であります。
  キリスト教は、他の宗教をどのように考えるのでしょうか。他宗教といっても、二種類あります。一方、人間性を駄目にする宗教、オカルト宗教、マインドコントロールする宗教には反対です。神の子イエスは人間となられました。神はキリストにおいて、人間となったので、決して物質やお金や原理になったのではありません。それゆえ「人間性がすべての尺度です」。逆に、人間性を豊かにする宗教は尊敬します。ただ私たちとは道が違っています。そこに対話が生じます。仏教に対して、私たちは「無」ということを学びます。しかし、その社会に対する消極的な態度に批判をもちます。イスラムについて言えば、アラーの神は、ヤハウエの神と同じです。旧約聖書を共有するからです。しかし、イスラムの教えはかなり律法的です。けれどもイスラム圏には、政教分離をはたした国もあります。そこでは人間性を尊びます。しかし、原理主義に対しては、イスラム教でもユダヤ教でもキリスト教でも反対です。それは人間性を破壊するからです。神は愛です。それゆえ私たちは、対話のできる宗教とは、対話しつつ神の国を目指して行くでしょう。パウロも「すべて正しいこと、すべて気高いこと、すべて愛すべきこと、それを心に留めなさい」(ピリピ・4:8)と言っています。現代はルカ12:13-21にあるように世俗的世界です。「今宵あなたのいのちがとられる」という時、あなたの態度は何でしょうか。それが宗教です。聖書は、ただ一つ、「神は愛だ」という解答をもっています。「いまだかって神を見た者はいません、私たちが互いに愛し合うなら、神は、私たちの内にとどまり、神の愛が私たちの内でまっとうされるのです」(Tヨハネ4:12)。十字架は神の愛の極致です。「十字架の言葉は、滅びる者には愚かなれど、救われる者には神の力です」(Tコリント1:18)。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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