3月26日(日)「十字架の躓きと誇り」説教要旨
   ガラテヤの信徒への手紙 6章 11節〜18節

  十字架には「躓きと誇り」の二面があります。闇と光といってもよいです。ふつう歴史的現実として見れば、十字架は死刑です。それがどうして救いのしるしなのでしょう、もう一つの面があります。イエスは自ら使命をおびて、エルサレムに上りました。それは自ら選び取った栄光でもありました。「十」は、二つのものの交差を表します。「見よ、私はシオンに、つまずきの石、妨げの岩を置く。これを信じる者は、失望することがない」(ローマ9:32-33)とある通りです。十字架の信仰には「躓き」があります。それは「愚か」とも言われます。それが栄光につながるのです。「十字架の言葉は、滅びる人には愚かですが、救われる私たちには、神の力です」(Tコリント1:18)。ここには「十字架の言葉」と言われています。「十字架の教え」ではありません。私たちの陥りやすい危険は、十字架がただの知識になり、飾りになってしまうことです。そこからは血が吹き出ていません。血は、「いのち」です。聖書に、「すべてのものは血によってきよめられます」、「血を流すことなしに、ゆるされることはありません」(ヘブル九・二二)と記されている通り、十字架はいのちをもって買い取りたもう血の値です。イエスは、富める青年が、「私は小さい時から、その教えをみな守って来ました。何が足りないのでしょう」(マタイ19:20)と聞いた時、「汝、なお一つを欠く」と問いかけました。その「残る一つ」とは何でしょうか。それは、富の安穏の中に安らうのでなく、外でもなく、自分をかけることでした。捨てることで得る。それは躓きです、キルケゴールは、この「躓き」をパラドックスと言いました。「矛盾」と訳します。トランプでマイナスを全部集めるとプラスになる遊びがあります。十字架はマイナスでしか、ありません。「愚か」です。しかし、もちろんここでいう愚かとは、「馬鹿さ加減」ではありません。「神の愚かさ」です。キリストは、よく考えてみると、世界で一番損した人ではないでしょうか。今日人びとは、賢くなって、なるべく損しないように考えます。したがって自分を賭けたり、冒険したりしません。すべて御身大切です。そこから何かすばらしいものが生まれるでしょうか。とんでもありません。パウロは申します。「この世は、その知恵によって、神を知ることはありません。 それは神の知恵にかなったことです」。 知識は、すべてを客観視します。方法化します。自分と対象と距離をおきます。いつも自分を安全地帯において眺めています。十字架の主は、自分を賭けることを命じます。現代は「神の愚かさ」が欠けて、すべて「人間の賢さ」になっているのではないでしょうか。「この世は、その知恵によって、神を知ることはありません。 それは神の知恵にかなったことです」。 第二に、 「十字架の言葉」、それは苦悩の言葉です。「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか」という、苦悩の底からほとばしりでる言葉です。イエスは苦しまれたからこそ、苦しみの中にある者を救うことができます。「彼らすべての悩みの時、主もまた悩まれて、その御前の使いをもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって、彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられました」(イザヤ六三・九)。神の痛みの愛です。神の永遠はコンニャクのようにつるっとした永遠ではなく、さつま揚げのように、しわやひだがあります。神の永遠は相対を包み越えた永遠です。神の絶対は、絶対君主のような支配的絶対ではなく、人となり、「自ら試みられ苦しまれたからこそ、試みの中にある者を助けうるのです」(ヘブル2:17-18)。それゆえ、それは「愛の言葉」であります。その十字架の主は、苦しみの中から、外でもなくあなたを愛しておられるのです。その主は、あなたのために、あなたの罪のために苦しまれたのです。この「ために」こそ愛に外なりません。十字架の愚かに徹するパウロは、そこで「私にとっては、私たちの主イエス・キリストの十字架のほかには、誇るべきものは、一切ありません」と言って、強い否定で表現しています。十字架プラスアルファではいけない、十字架を材料にして、自分を前面にだすのではいけないと言っているのです。神プラス何かを信じている時、私は無力です。十字架は、私を倒し、殺します。けれども私から一切を奪うゆえに、一切を与えるのです。「これによって世は私に対して十字架につけられ、私は世に対して十字架につけられたのです」。私にとって、この世は偉くなろうとする場所としては死んだ、いや私は立派な信者となろうとさえしない。この世は私にとって、ないに等しいのです。この世の評判も悪評も死んだのです。しかもその時、同時に「私もこの世に対して死んだ」のです。エゴーが死んで、私はこの世に対して、ただ奉仕者として生きるのです。となれば、「ただ新しく創造されること」のみが問題なのです。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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