4月9日(日)「すべては終った」説教要旨
   ヨハネによる福音書 19章 23節〜30節

   「すべては終わった」には、ふつう二つの意味があります。一つは、「だめだおしまいだ」の意味、もう一つはよい意味で、「すべてが完成した」ことです。ここでは後の意味です。創造の時、「すべては完成した」(創世記2:1)とあります。創造の業が完成し、神はその日を聖別し、私たちはその日を安息日として祝います。もし完成したならどうして、その後、安息日を祝う必要があるでしょう。完成したはずの世界は人間の罪に犯されました。人間が自由を勝手と勘違いして、好き勝手を始めたからです。しかし、今、その人類の罪のために、神の子が十字架にかかり、その罪のあがないが完成したのです。それが今日学ぶ「すべては終わった」との十字架の上での言葉です。しかし、完成したのに、まだ罪が残るのはどうしてでしょう。それはヨハネの黙示録に、「見よ、神の幕屋が人と共ににあり、神が人と共に住み、人は神の民となり、神自ら人と共にいまして、人の目から涙を全くぬぐいとってくださる。もはや死もなく、悲しみも、叫びも、痛みもない。先のものが、すでに過ぎ去ったからである」(21:4)とあります。この最終的完成を目指すためにほかなりません。こうして私たちは三つの完成に取り囲まれています。創造の時の完成(それは安息日に表れています)。十字架の完成、そして神の国の完成です。
 それに対応するように、ここには、聖書が「成就した」という言葉が二回でてきます。つまり聖書に記されている神のみ旨が実現したというのです。そのうち一つは、「完成した」と同じ言葉です。しかもいずれも、とても神のみ旨が実現したとは思えないようなことにおいて、「聖書が成就した」と言うのです。一回は、兵士たちが、イエスの着物をくじで分け合ったところです。兵士たちのエゴイズムの極です。もう一つの聖書の成就は、イエスが、いよいよ息を引き取るその時、「渇く」と言われたことでした。何千人を食べさせたお方が、どうしてまるで、今わの際の病人のように、「渇く」のでしょうか。スカルの井戸のほとりでも、主はのどが渇いて、水を汲みに来た女に、水を求めました。しかし、あの際、主はご自身が、「いつまでも渇くことのない、いのちの水」であることを示されたのです(四・七以下)。どうしていのちの水であるお方が、「渇く」のでしょうか。今、十字架の上で主は自ら渇くことを通して、渇いている者の苦しみを担い、それを負われたのです。「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないような方ではありません。罪は犯しませんでしたが、すべてのことで、わたしたちと同じように試練に会われたのです」(ヘブル四・一五)。「主ご自身、試練を受けらて苦しまれたからこそ、試練の中にいる人びとを助けることがおできになるのです」(ヘブル二・一八)。ここで詩編の二二編を引用しています。「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」で始まる、あの詩編は、死の苦しみのただ中にある人の歌です。今、ここでヨハネは、「人間のエゴイズムの極、人の死の渇きの底で、神のみ旨は成就した」と言うのです。わたしたちの悩む時、主も悩まれて、わたしの助け、あがないとなられたのです(イザヤ63:9)。 恐れることはありません。悩むことはありません。十字架、それはわたしたちと共に苦しむ神なのです。苦しむあなたのそばにいて、苦しんでくださる神なのです。
  人間的に見れば、終わりに見えることでも、神の側から見れば、神のご計画の完成です。「勝利したのです。それは死ではありません。悪魔でもありません。イエスですらありません。別なお方、御父がイエスにあって勝利をつくられたのです。イエス自身は、十字架につけられ、完全に静かに全能の御手にゆだねます。地上に、地獄に、よみの世界にまで勝利するため、服従してゆかれることによって、それに参与したのです」。こうしてイエスは、敵の攻撃にあっている人びと、苦しむ人びと、文字通り「渇いて」いる人びとの主となられました。「人もし渇くなら、わたしに来て、飲みなさい」(七・三七)と。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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