4月16日(日)「からだのよみがえり」説教要旨
   マルコによる福音書 16章 14節〜20節

   モルトマンの読書会でこういうことが問題になりました。私たちの歴史から、人間の生から復活をみると、それは弟子たちの心の中に起こった「信仰の解釈」(例えば「イエスは勝利者だ」と言った)か、それとも本当の出来事としてイエスが現れたのかという疑問が起こります。しかし、それは反対に見ることができます。復活の出来事から、逆にこの私たち歴史を見る時、この歴史は「いつか終わる、限りがある、相対的である」ことが分かります。その証拠にあなたはいつか死にます。世界にも歴史にも終わりが来ます。しかし、その時、黙示録に示されているように、神は「新しい天と新しい地」を造られるのです。その神が造る新しいもの(Newness)から見る時、復活とは、このあなたの限界のある、いつか終わる相対的歴史の中に、全く新しい世界を、神がイエス・キリストの復活において示されたのではないでしょうか。その時、復活は、貧しい者、虐げられた者、限界を感じて苦しんでいる者の解放の福音として、新しいものを示す真理として示されます。また私が死に直面し、苦しみ悩む時、永遠の生のあることを、復活は、私たちに示すのではないでしょうか。あなたの生涯でもよい、世界でもよい、それは相対的で限界のあるもの、いつか死で終わるものではないでしょうか。その死の向こうにある新しい世界からの福音、それが復活です。あなたはこのイエス・キリストの復活から、あなた自身の歴史(生涯、世界)を見ることができませんか。事実、葬儀に行くと、未信者の人でも、「お父さんは今、天国でどう思っているか」とか、「あの世で生きている」と言っているのを聞くことがしばしばあります。信仰のあるなしにかかわらず、事実上私たちは、人の死に直面して復活を信じているのではないでしょうか。
 今日の聖書の個所には「その後、十二弟子が食事をしている時、イエスが現れ、その不信仰とかたくなな心をおとがめになった。復活されたイエスを見た人びとの言うことを信じなかったからである」とあります。信じなかった人びとがいます。その人びとは、「かたくなな心」の人と呼ばれています。それはある枠をもっている人です。自分の歴史から、自分の既存の知識からしか見ない人びとが、復活を見た人のいうことを信じないので、(この新しい、全く新しいことが分からないので)、イエス・キリストご自身現れて、お責めになったのです。まさに復活から歴史(自分、生涯、世界)を見るように、復活の主ご自身が示されたのです。「全世界に出て行って」と言われます、出て行くのです。あなたの小さい枠を破って出て行くのです。恐らく弟子たちは、こわくて自分たちの扉を閉じて、締め切って自分の殻にこもっていたのでしょう。私たちも復活の主を知るまでは、その殻にこもっています。「出て行きなさい」。それが復活の主の第一の使信です。神が今、新しいことをなさる、だからその枠や殻を捨てて、もっと広い世界、歴史を見なさいと。
 私たちは宿命、運命という殻をかぶっています。因果という法則に捕らわれています。復活は、それらを越えて神のなさる新しいことを示しています。「それゆえ見よ、わたしはこの民の中に、再び驚くべきわざを行う。それは不思議な驚くべきわざである。彼らのうちの賢い人の知恵は滅び、さとい人の知識は隠される」(イザヤ29:14)。私たちの枠とは何か、運命だけではありません。性格という枠、仕方がないという枠、能力という枠、これは年齢ではありません。枠が固ければ若くても若年寄です。偏差値という枠もあります。それゆえここには、新しい奇跡が記されています。「信じるものには次ぎのようなしるしがともなう。彼らはわたしの名によって、悪霊を追い出し、新しい言葉を語る。手で蛇をつかみ、また毒を飲んでも、決して害を受けず、病人に手をおけばいやされる」。「主もまた彼らと共に働き、御言葉にともなうしるしをもって、その確かなことをお示しになりました」。全く新しいもの、あらゆる枠を越えるもの、それを復活の主は示されるのではないないでしょうか。私たちは、自分だけでなく、主ご自身が、「私たちと共に働いてくださる」ことを忘れています。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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