4月23日(日)「悩みの時にわれを呼べ」説教要旨
   ヨハネによる福音書 1章 24節〜27節

   「悩みの時にわれを呼べ、われ汝を助け、汝はわれをあがめん」(詩編五〇・一五)。ここに4つのことがあります。
 第一は「悩みの時」であります。人間はきわめて弱い者で、強がりを言っている時でさえ、いやそういう時こそ、本当に弱いのです。弱音を吐くとき、その苦しみから何とかして逃れたいと思いませんか。私たちの一年の計画にその悩みや苦悩は入っていませんでした。悩みを計算に入れて一年の計を立てる人はいません。しかし、私たちは予備費を予算に入れます。それは思わぬ計画外のことを予想しているのです。苦悩とは、私たちの計算に入っていない変則的なことです。世の中は、この変則が通常で原則ではないでしょうか。しかし、私たちは病気を常とする時、つまり、予備費を経常費とする時、俄然、神は私たちに近づいて来るのです。「正しき人は、悩み多し、されど神は、みなその中より救いたもう」(詩編三四・一九)。「神は私たちの避けどころ、私たちのとりで。苦難の時、必ずそこにいまして助けてくださる」とあります。そこから逃れるのでなく、「そこへと逃れよ」です。あたかも嵐の時、家の中や大きな木の下に隠れるように、大きな方である、神の下に逃れよ。あなたは神を制限して信じてはなりません。「イエス・キリストの立っているところは、ほかのどこよりも、私たちに近いところにある。またそれゆえにこそ、それは私たちに最も遠いところにある。それは最も知らないところであろう。木を見て森を見ずということがある。イエス・キリストは、私たちの生活のただ中に、この現実の世界の真ん中に立っておられる。ほかでもなく、その中心に立っておられる。どのような人生経験も、世古にたけた場所も、この中心を知らず、この中心を見いださなければ、何の役に立とう」。
 それゆえに、第二に「呼べ」です。イザヤ書に「あなたがたは主にお会いすることのできるうちに、主をたずねよ。近くおられるうちに呼びもとめよ」、「主にお会いする時」があるのです。チャンスを逃してはいけません。それは今です。「わが思いはあなたがたの思いとは異なり、わが道は、あなたがたの道とは異なると主は言われる。天が地よりも高いように、わが道もあなたがたの道うよりも高く、わが思いはあなたがたの思いよりも高い」。全く異なる力をもつお方に、呼び求めるのです。その時、「天から雨が降り、雪が落ちてまた帰らず、地を潤してものを生えさせ、芽を出させて、種まく者に種を与え、食べる者に糧を与える。このように、わが口から出る言葉も、むなしくわたしに帰らない。わたしの喜ぶことをなし、わたしが命じたことを果たす」(イザヤ55:6-11)とあります。私たちが5と思う時、神は10かなえてくださるのです。私たちが10と思う時、神は50与えてくださるのです。「あなたの神は小さすぎます」。
  第三に、「われ汝を助け」であります。呼ぶ者に神は答えてくださるのです。「たとい地は変わり、山は海原の中にうつるとも、海の水が、騒ぎ、沸き返り、山が震え動くとも、われゆるがじ」、「一つの川がある、その流れは都をうるおし、いと高き神の聖所をうるおす」。神はその中にいまし、都はゆるぐことはない、夜明けと共に、神は助けを与えられる。人びとは川がありながら、その水を飲もうとしない、神は助けだと思っているだけでは足りない、あなたはその水を汲んで飲まなくては。その前にひれ伏し、あなたの具体的問題のただ中の助けとして知らなくては。神の都の不動はその内なる力、都自体の能力、企画ではなく、神が現在なしたもうことによる。つまり私たちの困窮、しばしば陥る困難と、神の輝かしい助けに見いだされる現臨とは、背中合わせです。同時に、苦難におちいるあなたに、そのあなたと共に、「たとい山は海の真ん中に移るとも」、この現実の中で、この現実と神の現実とはいっしょなのです。疲れ果てた時、人間はあれがなくては駄目だと思う、しかし、神は人間の手段を折られる。「静まって、わたしこそ神であると知れ」。「すべてをやめて(力を捨てよ)知りなさい。わたしこそ神であることを」(46:10)。世の中には、やめて知ることがあります。それではできないと人は言います。しかし、神はいろいろな手段をもっています。本来その近いものが見えないのです。
   その時、第四の「汝はわれをあがめん」が出てきます。そして多くの人は、ひとつ前の「助け」というところでやめてしまうのです。それは自分中心に「呼び求めて」いるのです。私たちは多くの場合、「もの」を呼び求め、祈る時、きわめて唯物論者なのです。「もの」を求めていけないのではありません。主の祈りでは、まず「神の名」、そして四番目に「私たちの日用の糧」つまり「もの」を求めるのです。四番目が一番目になっている信仰があります。それは「汝われをあがめん」が抜けている信仰です。つまり神ご自身が抜けている信仰です。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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