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4月30日(日)「雲の柱・日の柱」説教要旨
出エジプト記 13章 17節〜22節
イスラエルの人々は、追っかけてくるエジプト人を見て、非常に恐れて主に向かって叫びました、モーセは民に答えました。「恐れてはならない。落ち着いて、今日、あなたたちのために行われる主の救いを見なさい。主があなたたちのために戦われる。あなたたちは静かにしていなさい」。そして最後に「イスラエルは、主がエジプト人に行われた大いなる御業を見、民は主を畏れ、主とその僕モーセを信じた」とありますから、彼らは最後には信仰、信頼に達したのです。しかし、その前には何と動揺したことでしょう。「信頼」とは、信仰の本質であります。それは「主にゆだねる」ことです。その反対は、主にゆだねないで、自分が自分の主人であるような信仰、いや自信にすぎないものです。しかし、今、荒野に入ったイスラエルは、「迷ってしまいました」。その時、「主は彼らの前に行かれ、昼は雲の柱をもって彼らを導き、夜は火の柱をもって彼らを照らしました」。このように私たちの神は、私たちの先にたって行く先を導いてくださいます。しかし、忘れてはいけません、この雲の柱も火の柱も、何千キロも先を照らすのではなく、行く先、行く先、ただすぐ先を示すだけです。「行く末、遠く見るを願わじ、主よ、わが弱き足を守りて一足また一足、道をば示したまえ」と賛美歌にあるように、私たちは、今一歩を照らす主に信頼して行かねばなりません。私たちは百歩を照らす光ではなく、いつも目の前の一歩を照らす光をいただくのです。そしてそれで十分としなくてはなりません。なぜなら、その一歩を歩いたなら、またさらに新しい一歩を照らす光をいただけるからです。神は自由で、手を替え品を替え導く神であります。昼は雲の柱、夜は火の柱と私たちの状況に応じて自由に変わります。神は永遠不変の神で、痛みも苦しみもしないと言うのは、ギリシア哲学の神です。聖書の神ではありません。それはコンニャクのように全部一様でなく、さつま揚げのようにしわもあり、しみもあるのです。神の永遠には相対性も含まれ、ひだがあるのです。神の絶対は、その時、その時で変わりうる自由をもつ絶対です。私たちは神と交渉することさえできます(創世記18:22以下)。
しかし、それにもかかわらず「パロが近寄った時、イスラエルの人びとは目を上げて、エジプト人が彼らのあとを進んで来ているのを見て、非常に恐れたのです」。 彼らは生ける神を信じないで、自分たちを奴隷にする強大な権力を見ました。それゆえ、つぶやきました、「荒野で死ぬより、エジプト人に仕える方が、私たちにはよかった」と。私たちは、とかく悪いものを見ます、自分をいじめるものを見て、決して神をみません。そこに動揺があります。自由を求めて荒野に出たものが、今自由から離れて、またもとの奴隷状態にもどろうとします。今日オカルト的宗教やマインドコントロールがはやっています。自分から自由を放棄して、まさに「自由からの逃走」をします。自分をしばる権力や、教祖にしたがって自由を放棄して生きる方が、ある人びとにとって、荒野の自由、いつも死と背中あわせの自由よりも楽なのです。律法的宗教がはやるのも、原理主義がもてはやされるのも、時代の自由の不安のなかで、自分の自由を放棄させるものに安心感をもとめるのでしょう。
しかし、真の信仰は、荒野の自由に旅立つことです。したがって、真の信仰の「ゆだねる」は、自分が何もしない「何事もあなたまかせ」ではありません。助け導く神とは、あなたを動かし、みずからも動く神です。その時、力を得る。その力とは、自分の力、自己確信の力、強情の力、また権力とは違います。神の力があって、あなたが神の動的な力の中に入って行く時、聖霊の力に満たされるのです。聖霊の力はこのように動かし、動いていますから、あなたも聖霊の力をいただきたければ、動いて神の助けの中に入らねばなりません。「汝立ちかえりて静かにせば、救いをえ、穏やかにしてより頼まば力を得べし」(イザヤ書)です。ただ祈りが、あなたまかせで何もしないことの代名詞になり、行くこと、動くことをおやすする、行うことの代用品ではありません。だからあなたの祈りには力がありません。「できるだろうか、できないだろうか」と半信半疑です。しかし、「できるか」を問うことは、ビジネスの言葉であって、信仰の言葉ではありません。「できるだろうか、できないだろうか」という問いから出発する人は、たいがい「いや、できない」に落ち着くものです。人間は冒険しないで安全の方がたやすいからです。それは計算の言葉で、その場合、かならず自分の計算の範囲しかできないものです。イエス・キリストは「できればと言うのか、信ずるものにはすべてのことができる」と言われました。自分中心の人は、このできる・できないにこだわっていて、何もできないのです。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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