5月7日(日)「真理の御霊」説教要旨
   ヨハネによる福音書 16章 1節〜33節

   イエスは天に昇るに際し、父のみもとに行くと告げます。「しかし、私はあなたがたに真理を言いますが、私が去って行くことは、あなたがたに益となります」。イエスがいなくなることが、弟子たちにとって益となるとは、何と驚くべきことでしょう。カルヴァンは、天に昇りたもうて、キリストはこの地上の時間空間に縛られず、すべての者のためになられると言いました。エペソ人への手紙にも、「降りてこられた者自身は、同時にあらゆるものに満ちるために、もろもろの天の上にまで上られた方なのである」(4:10)と記しています。それは万民のためのキリスト、宇宙的キリストです。あなたのもとにも霊のキリストはいるのです。二つの仕方で聖霊は、私たちのもとにこられます。一つは静かに、その人自身にも気づかず「鳩のようにくだる」聖霊と、また「激しい火のようにくだる」聖霊とがあります。事実、ペンテコステに聖霊を受けて、弟子たちは、イエスの生前知らなかったことを、教えられました。それは第一に、十字架の真理です。イエスの生きていらした時、それはまだはっきりしていません。「かのお方が来たなら、罪について、義について、さばきについて、この世の誤りを正すでしょう」。キリストを信じない人には、まだ本当の罪は分かりません。 十字架の真理、つまりその罪深い者をさえ、ゆるしたもう神の愛に出会いません。御霊は、このキリストを明らかにするのです。
   ここには、「しばらくして、あなたがたは、もはや私を見なくなるでしょう、しかし、またふたたびしばらく して、あなたがたは私を見るでしょう」と、二つのものが対照して出てきます。「見なくなる」ー「見えるようになる」、「憂い」ー「喜び」、「悩む」ー「勝利する」です。この世は大きく言って、すべてこの二つから成り立っています。私たちが仕事をする。そうすれば失敗、成功はつきものです。 しかし、これら二つは、よく見ると、互いに連絡し続いています。この二つは、一つから他へと移行するのです。冬が来ても、また春になるように、失敗は成功に続くのです。それだけではなく、この二つには時間的に、「しばらく」という形でつながっています。「しばらくの神学」です。「あなたがたをキリストにある、永遠の栄光に招き入れてくださった、あふれうる恵みの神は、しばらくの苦しみの後、あなたがたをいやし、強め、力づけ、不動のものにしてくださるでしょう」(Tペテロ5:10)。これが「しばらくの神学」です。今ここでは、「しばらくして、あなたがたは、もはや私を見なくなるでしょう」とは、もうすぐイエス・キリストは十字架にかかり、死なれることを表しています。しかし、それには復活が続きます。「しかし、またふたたびしばらくして、あなたがたは私を見るでしょう」。皆さん、私たちが、どんなに苦しんでも、それは「しばらく」です。「あなたは十日の間、悩みを受けるでしょう」(黙示録2;10)。もし苦しんでいる人に、「あなたの苦しみはしばらくですよ」、あるいは、「それはすぐに勝利に変わります」と言ったなら、それはどんなに大きな慰めでしょう。弟子たちの憂いは、確かにこの世の憂いと同じ性質をもっていても、その喜びは、信仰からくる喜びですから、そこには質的な変化があるのです。「涙とともに種まくものは、喜びをもって刈り入れるでしょう。種を携え、涙を流して、出てゆく者は、束を携え、喜びの声をあげて帰ってくるでしょう」(詩編126・5)。「あなたがたはこの世では、悩みがあります。しかし、大胆でありなさい、私はすでにこの世に勝利しています」との御言葉に基づくからです。それは「すでに世に勝って、勝利している」キリストの姿なのです。誰もこの勝利を変える事はできません。今度は「既にの神学」です。 それでも、「それは本当にそうでしょうか」と問うことはできます。信仰者の喜びが、信仰者の意識の中でかならずしも確かでないと言うことがあります。私たちは、すぐまた憂い、悲しみにしずむのです。イエスは確かに「あなたがたはこの世では、悩みがあります」と言います。そのことを主は、ご存じです。 私たちは、自分の力や、それがたとい有能であれ、無能であれ、それによって生きるわけでも、死ぬわけでもありません。その有能無能を越えて、主はいますのです。つまりイエスが勝利しているからこそ、私たちは、イエスの名によって祈るのです。勝利者イエスの名において、すべては聞かれるのです。 それは精神の安定でしょうか。私たちが祈るのは、ただ心のやすらぎ程度のことでしょうか。いいえ、違います。キリストは事実において勝利しておられるのです。初代教会において、教会は事実においてローマ帝国に勝利したのではないでしょうか。歴史の中で、実際無神論は敗れたのです。弟子たちが、このことを理解しなかったように、私たちも、事実そのことが起こるまで理解しません。それが現れた時、私たちは目を見張って、その事実に驚き、ひれ伏すのです。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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