5月21日(日)「聖霊の保証」説教要旨
   コリントの信徒への手紙 二 5章 1節〜10節

   聖霊は神の国の保証です。ちょうど約束の文書に署名捺印するように、地上の生活で不安の中にいる時、聖霊は「キリストの救い、その十字架と復活による救いは、この通り確かなものだ」と約束してくださいます。パウロは今、「たとい私たちの地上のテントの家がこわれても、神からの建物、手でつくったのでない、天にある永遠の家をもつことを、私たちは知っています」と言います。私たち地上の生活、生命を「テントの家」と呼んでいます。「テントは初めから、ふたたび取り払われる定め、テントが解体されるのは、その性質と用途にふさわしい事が起こったのです」。しかし、テントは解体されても、「無」になったわけではありません。地上の生は、決して無になりません。イエスの復活のからだに、十字架のきずあとが認められるように、復活の新しい霊のからだは、この地上のからだと別なものではなく、地上の苦難のきずあとが見られるのです。地上と掛け離れた天上を考えてはなりません。神からの建物、手でつくったのでない、天にある永遠の家でも、地上の生は空しくならず、その時にも地上のことが力を発揮します。どんな苦しい、恵まれない生涯も覚えられて、新しいからだを与えられるのです。名も無くして死んだアウシュヴィッツ、ヒロシマの死者の生涯も、むなしくなく、覚えられ新しくされます。ですから「その中で、もだえ苦しみながら、天からの私たちの住まいを、その上に着たいと切に願っています。 それを着たなら、私たちは裸でいることはないでしょう。 このテントの中にいる私たちは、重荷を負って、もだえ苦しんでいます。 それを脱ぎたいと思うのでなく、その上に着たいからです」。ヨハネ1:14や黙示録21:3をごらんなさい。受肉、再臨という大切なところで、神ご自身がこの壊れやすいテントをとってくださるとあります。神ご自身が、イエスという形をとって、地上のテントの姿で、私たちと共に住むのです。神は永遠ですが時間の形を取る神です。その絶対は、私たちの相対を包む絶対です。コンニャクのような、永遠一方のノッペリした神、永遠のみの神は、聖書の神ではありません。それはギリシア哲学の神です。聖書の神は、さつま揚げのように、ひだのある、しみもしわもあるような、永遠といっても時間を包み、絶対といっても相対を含んでいるような神です。それは苦しみの分からないような神ではありません。そこで「もだえ苦しんでいる」と、パウロにとって一瞬一瞬が、天国に通じます、その保証が聖霊です。この苦しみもだえは、全く滅びるのでもなく、全く生き生きとしているのでもありません。二つの間で苦しんでいるのが「もだえ」であります。現在と将来の間、信仰者はいつも、この中間にいるのです。全く絶望しきっているわけではなく、聖霊に燃えているわけでもありません。それが「もだえ」です。そこでは「もだえるのはやめなさい」という忠告は役にたちません。また禅僧が言うように、「心頭を滅却すれば、火もまた涼しい」と悟り澄ましているわけにもゆきません。人間であることは中間であることです。人間と人間の間、人間と自然の間、天と地の間、永遠と時間の間にあるのです。人間である以上うめき、もだえます。しかし、それは無や死や滅亡ではありません。この中間の人間が、そのまま大切なのです。神自身もだえます。「彼らすべての悩みの時、主も悩まれて、そのみ前の使いをもって彼らを救い、その愛と憐れみによって彼らをあがない、常に彼らを携えられた」(イザヤ63:9)と。信仰生活とは、この重ね着の生活にほかなりません。私たちは、いつも脱ぐことにエネルギーを奪われていませんか。また死後ではなく、今、この地上で、将来の希望に属する祝福の実体をつかむことができたら、どんなにかよいことでしょうと思いませんか。ちょうど重ね着するように、このからだの上に、復活のからだをかぶせていただけたら、どんなに良いことかと思いませんか。私たちは、あまり苦しいとこの世の生活を逃れたいと思います。パウロでさえそう思いました。「 私たちは心強いのですが、どちらかと言えば、からだを離れて、主とともに住みたいと願っています。 それゆえ、からだを住みかとしても、またからだを離れるにしても、主に喜ばれるものになることが、心からの願いです」。日本は世界一の自殺大国になりました。パウロと違って、この国には永遠がないのです。「有限性の絶望は無限性を欠くこと、無限性の絶望は有限性を欠くことだ」とキルケゴールは言います。キリスト者は、現在御旨がなることを求めつつ、御国がくる日を待ち望みます。キリストを知ることにより、かの日が現在に入ってきたのです。「悔い改めよ、神の国は近づいた」(マタイ4:17)。この二律背反の悩み、永遠の世界に住みたいということと現実のからだのなかで生きること、そこで「日々死す」ということが生きてきます。日々死すとは、日々キリストの再臨を味わっている人の言葉です。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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