5月28日(日)「聖霊と祈り」説教要旨
   ルカによる福音書 11章 9節〜13節

  ルカだけが、聖霊と「求めよ、さらば与えれん」との祈りを結びつけています。また同じルカの著作と言われる、使徒行伝にも、弟子たちが、二階座敷で祈っていると、聖霊が下ったと、祈りと聖霊を結びつけます。祈りにおいて、いただく最大のものが、聖霊であるのではないでしょうか。しかし、よく考えて見てください。「求める」以上、私たちの側にないのです。祈りとは、この全くない、欠けているところから出発することです。その全くない、あなたに欠けているという、あなたにとって劣等感や絶望の場所、そここそ神が満たしてくださる場所なのです。しかし、「求める」ということは、私たちの中に、日常生活によくあることです。またいろいろな宗教でも、願い事やご祈祷があります。しかし、聖書ではひとつ違った点があります。それは、「求めよ」が「さらば与えられん」と続くことです。それは「精神一倒、何事かならざらん」とは違います。そこには人間しかいません、人間の努力が、何かを生み出すというのです。しかし、ここには、「与えられん」と、向こう側があります。神さまの側があるのです。皆さんは求める時、与えられんと言う神を実感しますか。私たちはふだんは、それほど真剣でなくても、本当に、それが与えられなければ、大変だという時は、必死に祈り、その時は、神よ、神よと真剣に祈り、神に迫るのではないでしょうか。アメリカのある農村で、雨が降らず日照りが続き、困り果てたとき、教会で雨乞の祈り会をしたそうです。その時、遅れてきた少女が傘をもって出席しました。皆は、このひでりの日に、何で、傘をもってくるのかと問いただすと、少女はきっとなって言いました。「皆さん、私たちは雨乞の祈り会をするのではありませんか。私は帰りは雨だと存じ、傘をもってきました」。いならぶ人びとは、自分たちが、信じないで祈っていることを恥じました。そのように、私たちの祈りは、傘をもたずに祈り会をするような祈りではないでしょうか。そこには「与えられん」という神への真剣さがないのです。それはイエスの教えた祈りではなく、単なる願い事にすぎません。
 真の祈りは、単なる願い事とは違います。欲望や願い事には、信頼、信仰がありません。「さらば与えられん」との向こう側、神さまがなくて、こちら側だけです。つまり、あなたは弱い人間として立つ、そこに信じ祈り、聖霊をいただく場所があるのです。しかし、イエスの祈りは、それだけでありません。さらに祈りは強度にならなくてはなりません。「探せ、そうすれば見いだす」。これまでは、口で求めるのですが、今度は、歩いて行って、探すのです。祈りは、さらに強くなって行きます。探すという時、私たちは、落とし物を探すことを考えてみると分かります。それはないものを探すのではありません。この世のどこかにあるものを探すのです。そのように祈りは、神の世界に存在するものを、求めているのです。それが私たちの信頼の基礎です。必ず神のもとには、そのよいものがあると確信して探すのです。
 しかし、それのように強度になってゆく祈りにも障害があります。ついに、門に突き当たります。その門は、こちら側からは開きません。向こう側に閂がついているからです。けれども、考えてみてください、門は決して壁ではありません。壁なら開くことはないでしょう。確かに門に閂がかかっていれば、こちらからは開かないでしょう。しかし、そこでもこちら側からなすべきことがあります。それは「叩く」ことです、その時、祈る者は、子供として父に求めるのです。一体父が子に、悪いさそりを与えるでしょうか。必ずよいものを与えてくださるはずです。「あなたがたは、悪い者でありながら、自分の子供には、よい物を与えることを知っています」。そうです、罪深い人間すら、その子には、よい贈り物をします。どうして天の父が、子である私たちによいものをくださらないはずがあるでしょうか。ここには私たちの求めが、いっそう高くなってゆくさまが記されています。初め口で求め、ついで歩いて行って探す。ついに手を使って叩く、この切なる真剣さによって、神との交わりの秘義に入ってゆくのです。それは父と子を結ぶ、聖霊の秘義です。まして天の父は求める者に聖霊を与えてくださらないはずはありません。その時、父と子は聖霊に結びつき、御子キリストを通して、御父に祈る祈りは、聖霊と結びつかないことはありません。聖霊と祈りはひとつであります。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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