6月18日(日)「良い羊飼い」説教要旨
   ヨハネによる福音書  10章 1節〜6節

   「主は私の牧者であって、私には乏しいことがない。主は私を緑の牧場に付させいこいのみぎわに伴われる。主は私の魂を生き返らせ、み名のために私を正しい道に導かれる。たとい私は死の陰の谷を歩むとも禍を恐れません。あなたが私と共におられるからです」(詩編23:1)。 羊は弱い動物と言われています、それゆえ羊飼いに導かれねばなりません。羊は迷いやすいと言われています。それでいて案外、強情なところがあります。弱さは、また反対の強情としっかりと結びついているからです。まさにこの弱くて強情な羊の姿は、私たちの姿はでもあります。次に「羊の囲いに門から入らないで、ほかから乗り越えてくる者は、盗人であり、強盗です」。ここには、優しい羊飼いがいるだけではなく、恐ろしい強盗がでてきます。強盗は、群れを自分のものとするために、やって来ます。本当の羊飼いと違う点は、ちゃんとした門から入らないで、囲いを乗り越えて入ってくることです。「偽の羊飼いは、羊より優れたことを示すために、門からではなく、ほかから乗り越えて来ます。真の羊飼いは、羊の歩むべき道と同じ道を歩みます。主は、ご自分を低くして、羊のようになりました」。私たちが、ひとを導く場合にも同じようなことが言えます。本当の指導者は、イエス・キリストに従うものとして、正しい門から入ってゆきます。私たちが指導をする群れにでも、家庭の子供に対してでも、私たちがいつの間にか、強盗になってしまうことがあります。「私が、この門を通らずに、子供のところに行くなら、自分勝手に、塀を乗り越えて、しまいます」。その時、私たちは愛情をもって導いているようで、案外、「惜しみ無く愛は奪う」というように、相手を収奪していることがあります。正しいイエス・キリストという門からはいらないからです。それは羊飼いにではなく、自分自身に従わせているのです。それでリュテイー牧師は、私たちは「正しい指導ができるように、たえず主に祈りなさい」と言っています。
  「門を通って入ってくる者は、羊たちの羊飼いです。 門番は彼のために開き、羊たちは、羊飼いの声を聞きます。羊飼いは、自分の羊たちの名を呼んで、連れ出します。自分の羊たちを全部引き出すと、羊飼いは、その先頭にたって行き、羊たちは、彼に従います。羊飼いの声を知っているからです」。 「まさにここで、私はよい羊飼いである。このお言葉によって、私たちに主として出会われるお方、これがイエス・キリストにほかなりません。私たちが知ろうと知るまいと、私たちが受けた洗礼と共に、私たちすべての者に先だって語られ、また究極的に真実であり続けるよう、私たちの全生活のただ中に主として立たれるお方であります。さらに私たちが知ろうと知るまいと、このお方は主として、また諸国民を通じてその真ん中に、歴史の推移や破局を通して、その真ん中を歩み、聖なる教会を召し、集め、支配し、照らし、慰める、そのようなお方であります」。私たちは、このような「よい羊飼い」に守られ、導かれているのです。
 この良い羊飼いは、羊を囲いから出す時、ひとりひとりその名を呼んで、連れ出します。出エジプト三三・一七、「主は言われました、『あなたは、私の前に恵みを得、、私はあなたに好意を示し、あなたを名をもって知るでしょう』」。「羊に名があるのですか」と問いますか。ある新約学者が、この地方を旅行して、羊飼いに目隠しして、手探りで一匹一匹その名前を当てさせたところ、全部正確に答えたということです。私たちでも、犬や猫を飼うとき、まるで家族の一員であるかのように、それに「ポチ」とか「ミカ」とか名をつけます。羊飼いは、一匹一匹大切にしますから、名前で呼ぶのです。今日、管理社会は、いつのまにか、「名なし」になっていないでしょうか。受験生は、「偏差値」の名前でしか考えられません。能力社会は、ただ能力でしか人間を見ません。よく考えて見てください。神さま自身が名をもっておられるのです。私たちの神は、決して無名のものではありません。 主の祈りで、「願わくは御名をあがめさせたまえ」と祈ります。しかもそれは私たちの信仰が、おかしくなると、神様に名がなくなり、「永遠」とか「絶対者」とか、「愛」とか、すべて抽象的なものになります。あなたは、「仕方がない」と言って、運命に従う時、神さまは、「名なしの権兵衛」です。私たちは永遠に向かって祈る訳にはまいりません。神は人格であり、呼べば答えてくださる、父であり、イエス・キリストであります。このお名前を通して、ご自身を現します。それゆえ神は、私たちを抽象的な形で、人間とか、日本人とかでなく、十把一からげでなく、一人一人名を呼びます。全体主義や、専制主義では、一人一人名無しになります。今日の科学技術の社会も、ムジールが自分の小説の題名とした「特性のない男」のように、一人一人は、その社会で一つの歯車、ただ機能としてしか見られません。ですから、病気でもして、能力が衰えたら、実に冷たいものです。しかし、人間は、そのような中では本当に生きてゆくことはできません。イエス・キリストは、一人一人名を呼んで、囲いからとりだしてくださいます。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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