7月 2日(日)「羊飼いと羊」説教要旨
   ヨハネによる福音書  10章 9節〜16節

   ある人がキリスト者の奥さんに、「あなたは幸せだ、死に直面して、そこに頼れる方をもっているから。仏教 では、一切は無で、それをそのまま受け入れる、そこには信頼すべきお方はいない」と言いました。
  聖書にイエスが「私は・・・である」という所があり、それはヨハネ福音書に多くあります。ここでも「私は羊の門である」、「私はよい羊飼いである」とあります。それは嵐の波の中で、イエスが弟子たちに、「私である。恐れることはない」と言われたことに、はっきりと現れています。
  私たちにそう呼びかけるお方がほかにいますか。哲学者がそう言いますか。孔子がそう言いますか。仏典では、「如是我聞(私はそのように聞いた)」と言います、しかし、「私・・・である」と言いません。「私・・・である」と言えない私たちは、ひょっとして皆、ここに出てくる雇い人ではないでしょうか。それは本来羊を所有する羊飼いではありません。そして私自身、このよい羊飼いに属している時、初めて言えます、「ここで皆の面倒を見ている私は、ただ地上で羊を預かっているに過ぎない」と。
  「私は羊の門です。 私よりも前に来た者は、すべて盗人であり、強盗です。 羊たちは、彼らの言う ことを聞きませんでした。 私は門です。人がもし私を通って入るなら、救われ、出たり入ったりし、牧草を見いだすでしょう」。ここに門があります。
  キリストは、「私は羊の門です」と言われました。「人がもし私を通って入 るなら、救われ、出たり入ったりし、牧草を見いだすでしょう」とも言われました。別なところでは、「狭い門から入りなさい。滅びに導く門は大きく、その道は広く、そこから入って行く人が多いからです。いのちに導く門は狭く、その道は細く、それを見つけだす人はすくないからです」(マタイ7:13-14)とあります。
  どうして多く の人は、門から入らないのでしょう。それは狭いからです。では「狭い門」とは何でしょう。狭い門は自分が小さくなって、身を低くしないとはいれないのです。この門は、十字架です。あとでキリストは、「良い羊飼いは、羊たちのために 、そのいのちを捨てます」と言っています。これは明らかに十字架を意味していないでしょうか。真理は十字架にあります。「しかし、私自身にとっては、十字架のほかに誇りとするものは、断じてあってはなりません。この十字架につけられて、この世は私に対して死に、私もこの世に対して死んでしまったのです」(ガラテヤ6:14)とパウロも言っています。つまり、私たちのために十字架を負うお方のみ、「私・・・である」と言えるのです。けれども十字架とは、イエスが負うものであるばかりでなく、私たちが負うものでもあります。その証拠にイエスは、「私についてきたいと思うものは、自分を捨て、自分の十字架を負って、私にしたがってきなさい」(マタイ16:24)と言っています。それは自分に死んで、神に生きる道にほかなりません。
  したがって、この十字架と言う門を通らないものは、盗人であり強盗です。キリストが苦しみつつ通られた門を素通りしてゆくからです。「盗人はただ自分自身のためにだけ働きます。こうして彼は教会の破壊者となります。それに反してイエスは、人間が必要とするものを、人に与えることのできる、愛の力をご自身のうちにもっておられます」。「私たちも時に、この強盗の罪におちいりませんか。人間を導くことによっても、神の栄光を盗みませんか 。羊の眼前に自分を出して、羊の目を自分につけようとし、門である主を示しません。自分の熱心、自 分の経験、自分の悟りをしめして、門から入ろうとするものを拒みます。これは実に大きな罪であります」。「 人がもし私を通って入るなら、救われ、出たり入ったりし、牧草を見いだすでしょう」。
  この門は、入り口は狭いのですが、中は広いのです。第一に、「救い」がそこにあります。第二に、出たり入ったりする「自由」がそこにあります。 第三に、牧草にありつき、「満たされ」ます。ここに至って、この門の狭さは、けっして偏狭とか固陋といった人間 的狭さではなく、原理主義の道ではありません。本当の自由に至るための門であることがわかります。「いのちに 至る門は狭い」のです。しかし、私たちは心配する必要はありません。「恐れるな、私は良い羊飼いです」と言ってくださるお方が、私たちの中にいらっしゃるのです。「私は良い羊飼いであり、自分のものを知っています。自分のものは、私を知っています。 それは父が私を知っており、私が父を知っているのと同じです。 そして羊のために、私のいのちを捨てます」。「私たちは神をもつことはできません。しかし、神が私たちをもとうとされます」。私たちは彼の所有です。私たちは、彼のためにいのちを捨てません。しかし、彼は、私たちのためにいのちを捨てられます。彼は最初から最後まで私たちをお捨てになりません」。ここに私たちの希望があるのです。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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