7月 9日(日)「ノアの洪水」説教要旨
   創世記  6章 5節〜8節

   「アブラハムの神、イサクの神、ヤコブの神、哲学者の神にあらず、知者の神にあらず」(パスカル)。
   ギリシア哲学では、「神は最高善であって、永遠、不動な非感覚的実体、他を動かすが、自らは全く不変不動である」と言います。そのような神は受苦不可能です。西欧のキリスト教神学は、ギリシア哲学を基盤としてできていますから、長いこと、神は苦しんだり悩んだりしないと言って来ました。

   永遠、絶対、不変、この長い西欧の神学の中で、苦しむ神を言ったのは、オリゲネスです、「神は、その憐れみにおいて、共に受苦する。まことの神は、心ない方ではない」と言っています。

  もう一人は、ボンヘッファーです。「人間は困窮の中にある神に行き、貧しく、はずかしめられ、よるべなき、パンなき神を見いだし、罪と弱さと死に飲み込まれている神を見る。キリスト者は苦しみたもう神のもとに立つ」と。聖書の神はギリシア哲学の神と違って、痛み、苦しみ、悔いる神です。
  ノアの箱舟の記事で、「主は地のうえに人を造ったことを悔いて、心を痛め」(創世記6:5)とあります。それはアモス7:3、ホセア11:8、サムエル下24:16、ヨナ3:9にもあります。しかし、民数記23:19、サムエル上15:29、詩編110:4には、「神は人でないから、悔いることはない」とあります。

  神が不変で絶対であることは、真理です。しかし、それは一面の真理です。ただ聖書の不変なる永遠の神は、痛み、悔い、苦しむ神であることは否定できません。それはイエス・キリストの十字架が示しています。そうでなければ、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」との十字架の上での問いは、分かりません。聖書は「ヤハウエの悔いとか、心の痛みを介在させることによって、罪と罰を機械的因果応報の原理から解放した」のです。
  不変絶対が決定論になることがいけないのです。私たちは、ニュートン流の自然法則の決定論が新しい量子力学の不確定性原理によってくつがえされたことを記憶します。予定説といって、神の永遠の決定を重視する神学学説は、誤りだと思います。それを覆すには、たった一つの聖句で十分です。「神はすべての人が救われて、真理を悟ることを欲したもう」(Tテモテ2:4)。 またエゼキエル書はこう言っています、「わたしが義人に、彼は必ず生きると言っても、もし彼が自分の義をたのんで、罪を犯すなら彼のすべての義は覚えられない。彼は自ら犯した罪のために死ぬ。また、わたしが悪人に、あなたは必ず死ぬと言っても、もし彼がその罪を離れ、公道と正義を行うならば、彼は必ず生きる」(33:13以下)。
  列王下20:1-11には、ヒゼキヤ王が病気になって死にかかっていた時、預言者イザヤが、王のもとに来て言います、「主はこう言われます、『あなたは死にます。生きながらえることはできない』と」。ヒゼキヤは激しく泣いて、神に向かって祈りました。するとイザヤがまだ中庭を出ないうちに、神の言葉が臨みました。神はヒゼキヤの命を十五年延ばしてくださると。ヒゼキヤは、その延命のしるしとして、日蔭を十度退かせてくださいと願います。そこで預言者イザヤが主に呼ばわると、神は、アハズの日時計の上に進んだ日蔭を、十度退かせました。

  この出来事は、実に、神のみ旨の自由さを表していないでしょうか。決定論の正反対です。私たちは神学的な予定論のほかに、自然科学的決定論を、いまだに執拗に、科学的世界観から知らされます。たとえば遺伝子工学の思考法です。DNAによって、あたかもすべてが決まってしまうような考え方は、上に述べた聖書的自由の考えと正反対です。しかし、そんな科学的決定論とか、言わなくても、私たちの日常生活で、性格だからとか、親の遺伝だからという、日常生活的宿命論がはびこっていないでしょうか。自由の世界、それが生ける神の世界にほかなりません。律法主義、原理主義、それは心をかたくなにします。ある研究によると、年とって律法的な人ほど、早くぼけるそうです。自由な思考な人ほど、ぼけることがないと言っていました。その研究を待つまでもなく、私たちの実感として分かるような気がします。神は第一に自由な神、そしてその神は愛なる神であります。そのことが、私たちの信仰と生活の質を変えます。

  そこで私たちは、次のように考えるべきではないでしょうか。現実の神の世界があって、それを客体のほうに抽象化してゆくと物の世界があり、主体の方に推し進めてゆくと心や精神の世界になる。いずれも二つの抽象化であって、現実の神の世界は、そのいずれでもないし、またそのいずれをも包んでいるのだと。「わたしは神が人の子らに与えて、骨折らせる仕事を見た(物の世界)。神のなされることは皆その時にかなって美しい(神の現実の世界)。神はまた人の心に永遠を思う思いを授けられた(精神の世界)。それでもなお、人は神のなされる業を初めから終わり間で見極めることはできない(信仰の世界)」(伝道の書3:10)。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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