7月 23日(日)「強い者と弱い者」説教要旨
   ローマ  15章 1節-6説

   「私たち強い者」と、不思議なことに、私たちが強い者の側におかれています。そうでようか、私たちは果たして強い者でしょうか。人間は皆、弱い者ではないでしょうか。

  確かに私たちは皆弱い者であります。キリストの福音においては、人間は「強い者と弱い者、富める者と貧しい者」皆、等しく罪人です。神の前には同じです。
  ただ同じだと言っているだけでなく富める者、強い者の責任を問います。神の豊かな恵みをいただいている者は、それだけ大きな責任を負っています。それゆえ強さを振り回していばってはいけません。
  「強い」のは「弱い」のに対して、「強い」のであって、私たちはいつもすべては関係の中にあることを忘れてはなりません。「自分だけを喜ばせ」、「自分の満足だけを」追い求めるべきではありません。「自分だけを喜ばせる」時、強さのもつ自由は、不自由に変わるでしょう。そうすると強さのもつ良い点が、かえって悪さに変わるのです。そこでは隣人を喜ばせ、お互いに向上を目指すことが良いことなのです。

  その善は、いつも関係の中にあります。ちょうどそれ自体汚れているものがないように、それ自体善なるものもありません。互いの愛の関係の中で、善にあるいは悪になるのです。「忍耐には、苦しみを耐え抜く忍耐があります。しかし、ほかに弱く小さく、つたないものをも期待して待つ忍耐もあります」。どちらがよいか、場合によりますが、真の忍耐は必ず勝利します。こうした忍耐がなければ、人は自分だけ依り頼み、神のなさり方を見ません。忍耐は我慢とは違います。我慢には信仰がありません。ですから神の勝利もありません。弱さを強くしてあげる人、強さを押し付ける人ではなく、「相手を形成する人」こそ真に強いのです。

  そもそも私たちの強さは、私たちの弱さをキリストが担ってくださったことから来るのではないでしょうか。だから強さの問題でなく、弱さの問題でもなく、この関係の中に、イエス・キリストが立たれることが大切なのです。強さ弱さの問題は、ついにイエス・キリストに来ます。
「キリストは、この弱い兄弟のためにも死なれた」(ローマ14:15)
のです。ここでもイエス・キリストは、ご自身を喜ばせず、私たちの罪を負ってくださる方であることが明かにされます。このイエス・キリストこそ真に強いお方なのです。
  「キリストは神の形でしたが、神と等しくあることを固守すべきことと思わず、己を無にして、僕の形を取り、人間の姿になられました」(ピリピ2:6)。
最も強いお方が、このように弱さを身におったのです。ここには、ローマ書のしめくくりとして、信仰によって義とされた人間が、きよめられる聖化、私たちの行い倫理の問題があるのです。私たちを救う義認の真理は、今、私たちを生かす生活の真理になります。つまり、「自由な者は、自分の自由を用いるだけではなく、自分の自由を愛のために放棄する、もっと大きな自由をもっているのです」。このことが分からなかったら、前半の信仰義認もよく分かっていないのです。

  キリストはご自身の好むことをなさったのではありません。もしそうなら、私たちはどうして救われるでしょうか。キリストは、ほかでもなく私たちの罪と恥とを担われて、十字架に死なれたのです。このように本当の愛は、他者の恥を引き受けるのです。こうして救い主の心が分かった者は、その救い主の心をさらに伝えようと一生懸命にならざるを得ないのです。
  「救われたことが、さらに救い主の心を呼び覚まします。自ら大きな救いを体験した者は、弱い兄弟にこの救い主の心を示す以外のことはできません。たとい少しばかり自分の自由を放棄しても」。
このようなところにこそイエス・キリストはいらしゃるのです。
  「強い者は、隣人を見つめます。私たちは隣人とは、すべての者の中にいます絶対的な一人のお方であることを忘れてはなりません。強い者は強いのですから、誰とも対立せずに、すべての者の背後に立ちます。彼は先だって急ぐことをしません。彼は待ちます。彼は休みません。彼は目を覚ましています。彼は批判しません、(彼は批判するには、あまりにも批判的すぎます)。彼は希望をもち続けます。彼は教育しません。彼は祈ります。というより、彼は祈ることによって、教育するのです。彼は姿を現しません、彼は引き退きます。彼はどこにもいません。それは彼がいたるところにいるからです」。

  この強い者とは誰か。キリスト以外にはありません。しかし、同時に「私たち強い者」であることを忘れてはなりません。私たちはイエス・キリストによって、強くされたのです。その時「忍耐と慰めの神が私たちにキリストにならって、お互いに批判しません一つ心をもち、こうして一つ思いになり声を合わせて、私たちの主キリストの父なる神をあがめるように」してくださるでしょう。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2005 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.