7月 30日(日)「信 仰 の 論 理 」説教要旨
   ヨハネ  4章 12節

  ヨハネの手紙は教会用語を使わずに、キリスト教の真理を表している書です。
「いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」。

  しかし、「わたしたちが愛し合う時、神はわたしたちの中にいます」とは、本当でしょうか。人は本当に愛し合うことができるのでしょうか。
  有島武郎は『惜しみなく愛は奪う』と言いました。親は子を愛する、しかし、純粋な愛には必ず自己中心がともないます。ある教育熱心な親の子が学校に火をつけました。どうしてでしょう。その子の言うには、「いつもお母さんの路線を歩まされ、自分の考えがなく、友達もできなかった。学校に放火すれば、皆が自分に目を向けてくれると思った」と。その親は本当に子供を愛していたのでしょうか。自分の意見に子供を従わせ自己満足していたのではないでしょうか。
  人間の愛は、罪に満ちていて、とても神の愛と似ても似つかぬものです。私たちが互いに愛し合う時、神がいますどころか、反対に人間の深い罪が現れます。「人は愛している時ほど罪人であることはない」。愛という、清く崇高なものが現れる時ほど、人間のみにくい罪が現れるという矛盾、これが人間の愛の現実です。「愛は惜しみなく奪う」のです。


  では、どうしたらよいのでしょう。戦争の時、中国で上官の戦争犯罪の責任をなすりつけられ、死刑の宣告を受けた人がいます。この無実の罪を負わせられた人は、苦しみもだえ、牢屋の中で気違いのようになりました。しかし、その絶望の底で聖書に出会いました。人は絶望に会う、人間の罪に会う、死に出会う時、神に出会うのです。この人は、上官の罪をなすりつけられ人間の罪に出会いました。自分は無実の罪で死刑、まさに死に直面し、絶望しています。罪と死と絶望、ここで人間は宗教的になります。愛という美しいものが、罪というみにくいものを蔵していると反対に、絶望、罪、死に出会って、人は、宗教に行き着くのです。

  私たちは、このような限界線で、この中国での死刑の判決を受けた兵士のように、イエス・キリストに出会います。イエス、彼は取税人、罪人の友となり、放蕩息子のたとえを話します。父は、放蕩息子に財産をだまって与え、「お前そんなことしても、きっと無駄使いするよ」などと、お説教がましいことは言わずに送り出します。無一物で帰って来た時、遠くにいるのに走り寄って、接吻し最上のごちそうをします。
  このお方は、すべての人を受け入れます。そこで私たちは気づきます。神とは、どのようなお方か。あなたは、たといどなたでも、この方に受け入れられています。受け入れられている事実を「恵み」と言います。私たちは、この恵みなしには、皆失われた者にすぎません。このイエスにおいて私たちは無限に大きな神に出会います。

  サンダーシングは言いました、
  「キリストこそは、わが救い主、わが生命である。かって私は、砂漠の中を旅して、体は疲れ果て、口は渇いた。水を求めて、あたりを見回していると、かなたに湖の影が見えた。しかし、いつまで立っても、私は湖に到達できなかった。それは蜃気楼だった。そのように、私はこの世を生命の水に渇きをもとめつつさまよった。そして現世の富、地位、名誉、豪奢、それらが私の心の渇をいやす湖のごとくに見えた。しかし、結局、私はそれらのものから生命の水を一滴も得なかった。私はこうして、渇き死のうとしていた。ところが、一転、私の心の眼が開かれた時、私はイエス・キリストの傷ある脇腹から、こんこんとあふれ出る生命の流れを見ることができた。私はそれを飲んで、そして心から満足した。もう再び、渇きは私を襲わなかった。私の心は賛美に満たされている」。

  そうです神の愛にもどりましょう。
  「 愛する者たち、互いに愛し合いましょう。愛は神から出るもので、愛する者は皆、神から生まれ、神を知っているからです。愛することのない者は神を知りません。神は愛だからです。神は、独り子を世にお遣わしになりました。その方によって、わたしたちが生きるようになるためです。ここに、神の愛がわたしたちの内に示されました。わたしたちが神を愛したのではなく、神がわたしたちを愛して、わたしたちの罪を償ういけにえとして、御子をお遣わしになりました。ここに愛があります。愛する者たち、神がこのようにわたしたちを愛されたのですから、わたしたちも互いに愛し合うべきです。いまだかつて神を見た者はいません。わたしたちが互いに愛し合うならば、神はわたしたちの内にとどまってくださり、神の愛がわたしたちの内で全うされているのです」。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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