8月 13日(日)「異邦人の救い」説教要旨
   ローマ  2章 10節〜16節

  「おじいちゃんは、とてもよい人でしたが、キリスト教も知らずに死にましたが、救われないのでしょうか」。しかし、こういう問いに対して神学者ラ−ナー、ティッリヒ、モルトマンは「隠れたキリスト者」ということを言い、また第二バチカン公会議の「キリスト教以外の諸宗教に対する教会の態度についての宣言」には、ヒンズー教、仏教について述べた後、次のように述べます。「普遍なる教会は、これらの諸宗教の中に見いだされる真実で尊いものを何も退けない、これらの諸宗教の行動と生活の様式、戒律と教義を、まじめな尊敬の念をもって考察する。それらは、教会が保持し提示するものとは多くの点で異なっているが、すべての人を照らす真理のある光線を示すことがまれではない。しかしながら、教会はたえずキリストを告げ、また告げなければならない」。
  その一つの根拠が、今日のローマ2:10以下です。
「たとえ律法を持たない異邦人も、律法の命じるところを自然に行えば、律法を持たなくとも、自分自身が律法なのです。こういう人々は、律法の要求する事柄がその心に記されていることを示しています。彼らの良心もこれを証ししており、また心の思いも、互いに責めたり弁明し合って、同じことを示しています」。
  ということは、パウロは、信仰の外側の世界をもよく知り、それを自分の神学の中に取り入れているのです。つまり、信仰の神学があると共に、自然の神学があるのです。書かれた律法があると共に、良心の律法もあるのです。

  しかし、間違わないでください。「そのことは、神が、わたしの福音の告げるとおり、人々の隠れた事柄をキリスト・イエスを通して裁かれる日に、明らかになるでしょう」とあります。その異邦人のもつ「良心の律法」も「自然の神学」も、それはイエス・キリストの外側にあるのでなく、実に、終末論的見地に立つ時、それはイエス・キリストの信仰の内側にあるのです。
  なぜなら、
「生まれながら無割礼の者であって律法を全うする者は、律法の文字と割礼をもちながら、律法を犯しているあなたがたを、さばくのである。というのは、外見上のユダヤ人がユダヤ人ではなく、また外見上の肉における割礼が割礼でもない。かえって隠れたユダヤ人がユダヤ人であり、また文字によらず霊による心の割礼こそ割礼であって、そのほまれは人からではなく、神から来るのである」。
  ここで初めの「隠れたキリスト者」ということが生きてくるのです。 それならば、キリストも信仰もいらないのではないか。そうではありません。自然のまま律法を行う人は、かの日に、「ああ、あなた(キリスト)でしたか」ということになるでしょう。そのことを早く知ったキリスト者は、キリストのものであることを明かにし、世界に知らせなくてはならないのです。真理を知った人は、いち早くその真理を知らせ、それに生き始めなくてはならないのです。洗礼は、自分が他と違った優位を表すのでなく、自分がこのイエス・キリストによって救われたことを表し、この他に救いがないことを告げるのです。早く知ったか、遅く知ったかの違いはあっても、同じキリストで、早く知った人には責任があるのです。しかし、優越はないのです。むしろ、神を恐れ、キリストをたたえる恵みのみがあるのです。


  ではどの宗教でもいいのか、たとえば、富士山の頂上に上る道は、いくつもあるが、ついにいずれも「同じ高嶺の月を見る」といったことではありません。それなら、宗教は道であり、手段でしかありません。その時、頂上で見る月がより大きな宗教ということになります。そうではなく、イエス・キリストは、諸宗教を含んでいる真理なのだということです。
  なぜなら、神の絶対は、「唯我独尊の絶対」ではなく、人となり、すべての人の中にいます相対ともなれる真理なのです。その意味で、イエス・キリストの宗教は、すべての相対を包み越える信仰なのです。
  そこで行われるのは、何がよいかという選別ではなく、対話です。イエス・キリストの神は、三位一体の神、対話する神であります。隠れて見たもう神が、ここでは問題です。見える人間の行為ではありません。そして隠れています神は、隠れた心の中をごらんになるのです。
  良いサマリヤ人のたとえでは、山の中で隠れたところでの良い行為が問題でした。その神の隠れた現実、それはイエス・キリストにほかなりません。「あなたがたの知らない方が、あなたがたの中に立っています」(ヨハネ1・26)。そのあなたがたの知らない隠れた方は、イエス・キリストです。かの日に顔と顔を合わせてまみえる。しかし、これは異邦人を満足させるためではなく、ユダヤ人にも、ギリシア人にも、すべて信じる人に救いを得させる神の力である福音を知らせるためなのです。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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