8月 20日(日)「その労はむなしくない」説教要旨
   Tコリント  15章 56節〜58節

  「私たちが復活の希望と実践を問う時、この希望によって魂の息吹を与えられた人間の、生の歩みと生の経験を問うっている。期待された肉体の復活は、復活の御霊の中に現臨し、今すでの働いている。神の御霊にある生は、したがって復活の力の中にある生である。伝統的には、それは御霊による再生として理解され、洗礼によって象徴されている」(モルトマン『イエス・キリストの道』)。

  私たちは復活というと、第一にイエス・キリストの復活を考えます。確かに、それがなければ、これから話す復活もありません。また私たちは死んだ人が再びよみがえる希望について考えます。しかし、それは復活の将来的面にすぎません。洗礼を受けてキリスト者となったこの現在の生に復活の御霊は働いているのです。復活は、現在のあなたをどう生かしているのか。 
 「最初の人アダムは生きた者となった。しかし、最後のアダムは、命を与える霊となった」
とあります。私たちの地上の生は、この二つからなっています。アダムはアダマ(土)から造られ土に帰る運命にあります。しかし、私たちのために第二のアダムがいます。それは新しい創造的力をもつキリストです。私たちの今のいのちは、いつか死に果て、朽ちるものにすぎません。この朽ちるものは、朽ちない霊のからだ、復活のからだに変えられなくてはならないのです。その際、一粒の麦は死ななければ多くの実をむすびません。復活を真剣に学ぶ者は、十字架にあわせられなくてはなりません。
 「自分のいのちを救おうと思う者は、これを失います」。「キリストにバプテスマされた私たちは、その死にバプテスマされたのです。その死にバプテスマされたことによって、私たちはキリストと共に葬られたのです。それはキリストが御父によってよみがえらされたように、私たちもまた、そのように新しいいのちに歩むためであります」(ローマ6:4)。

 私たちの受けた洗礼は、死と命の二つを示しています。復活には十字架の傷痕がありました。私たちは十字架と復活とを切り離してはなりません。切り離すなら、苦難は泣き言と悲観主義になります。復活は抽象的な楽観主義におちいります。キリストにおいて両者は、しっかりと結びついているのです。キリストが、自らの死によって、死に打ち勝った時、復活の喜びが一つのメッセージとなります。現実の苦難の生のただ中で生きる勇気と力となります。
「私の愛する兄弟たち、しっかりとし、動くことなく、主の業にいつも励みなさい。私たちの労苦は、主にあってむなしくないことを、あなたがたは知っているからです」。


  私たちはこの世にあって、悩み、苦しみ、時々自分の生は、むなしいのではないかと嘆くことがあります。私たちは動揺し、いつも弱さをかこち、戸惑いします。しかし、その時、このお方を見ましょう。私たちのために十字架にかかり、死んで、三日目によみがえられた、この勝利の主を見ましょう。その方は、ひょつとしてあなたの苦難のすぐそばにいるかも知れません。いつも全力を注いで主の業に励む、その努力は決して無駄にはなりません。
 十字架はあなたに安らぎと、祝福を与えるだけではありません。いのちと力と、勇気と努力と、信仰と確信を与え、あなたを生きたものとするでしょう。「イエスに仕えることは無益な労苦でも、生の浪費でもありません。主のためになされた私たちの働きは、他の人びとだけにではなく、私たち自身にも栄えある実りを主によって生み出します。なぜなら、主は私たちを完成した生命へ、死を乗り越えた生命へと導き入れるからであります」。弟や妹のために犠牲になって労苦した姉妹も、伝道で努力したのに、うまくゆかなかった人も、その労苦は空しくありません。私たちは、多くの苦労をして、結果が思わしくない時、がっかりします。しかし、主の業に励みなさい、その仕事は、主にあってむなしくない。私たちは「神に愛せられた者」です。神はあなたを愛しているのです。その事実から出発しなさい。

  次に「しっかりと動くことなく」。私たちの一番いけないことは、動くことです。すぐに変わり、ひとつことに集中しないことです。それは成果ばかり見て、主に愛せられている事実を見ないのです。「石の上にも三年」と言われます。しょちゅう変わっている人は、何もできないのです。さらに「いつ何時も、主の業に励みなさい」。自分から見て情勢が悪いと見える時にもです。環境や情勢のせいにしない。「御言葉を宣べ伝えなさい。たとい時が良くても悪くても、それを励み、あくまでも寛容な心デよく教えて、責め、戒め、勧めなさい」(Uテモテ4:2)。
 「その時、私たちの労苦は主にあってむなしくはない」。地上の労苦には、私たちに見える面と見えない面とがあります。あの人はこなくなった、それは私たちに見える面です。主にあってむなしくはない。それは目に見えない面です。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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