8月 27日(日)「迫める者のために祈れ」説教要旨
   マタイ  5章 43節〜48節

  「あなたの敵を愛しなさい」、そんなことができるのでしょうか。「敵」とは、私が日常生活で憎んであまりある奴です。会うことも言葉を交わすこともいやで、道で会っても避けて通る。そういう奴をどうして愛せるでしょう。

  しかし、その前に「『隣人を愛し、敵を憎め』と命じられている」とあります。これは聖書の言葉ではありません。しかし「敵を憎め」には真実味があります。今日までの戦争は、皆、この「敵を憎め」から来ています。「敵」とは誰でしょう。男には「いつも7人の敵がいる」と言われます。ある主張をもてば、必ず反対者に出会います。そこで論争になります。イエスは、「わたしの敵は、その家の者だ」(マタイ10:36)とも言いました。すると案外、私に最も近い者、それが敵となる可能性があります。夫、妻、いや子供、親、もしかしたら、それが敵かも知れません。

  敵とは、憎んであまりある奴と思っていたら、案外、自分の身近かな者が敵なのではないでしょうか。私たちが愛している人が、憎らしい奴に早変わりします。それが私たちの現実です。嫁と姑、娘と母親が、息子と父親が、激しい闘争をすることは、皆さんもご存じでしょう。人間は、決して見知らぬ者とは、それほど激しい憎しみあいをしないものです。

その時、どうしたらよいのでしょう。こちらは、前の述べた憎らしい敵とは違います。同質ゆえに、憎むのです。近親憎悪と言われます。憎らしい敵に出会った時、私たちは愛せません。愛はどこかへ、飛んで行ってしまいます。しかし、皆さん、「敵」をほかにして愛に値するものがあるでしょうか。
 「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか。徴税人でも、同じことをしているではないか。自分の兄弟にだけ挨拶したところで、どんな優れたことをしたことになろうか。異邦人でさえ、同じことをしているではないか」。


  自分の近親が、愛する者でなく憎らしい者に変わる時、それはあなたの信仰が試されているのです。イエスは次いで言われます。「あなたを迫める者のために祈れ」。祈りは親しい者のためにだけあるのではありません。実に「敵」のためにあるのです。「憎む」時、それは相手の顔のみがあるのです。しかし、「あなたを迫める者のために祈れ」という時、祈る自分に目が向くのです。憎しみ、怒っている時には、憎らしい相手のみが、目の中にあります。しかし、「祈れ」といわれる、その時、憎んでいる自分に目が向けられたのです。

  「さあ祈ろう」と思う、その時、では誰に向かって祈るのか、それはあなたをお造りになった神に向かって祈るのです。それは「あなたがたの天の父の子となるためである。父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださるからである」とあるように、今、あなたの生活に、教会が入ってきたのです。日曜日が到来したのです。月火水木と忘れていた、あのお方を思い起こし、その方の前にひざまづいたのです。「迫める者」、「敵」は祈りの対象になったのです。敵とあなたの間に、天の父が入ってきたのです。

  私たちが敵を作る時、必ずそこに罪があります。最初は、それは相手の罪でした。あいつは、こんなにひどいことをした。憤怒の炎が燃え上がるほどです。しかし、今、「あなたを迫める者のために祈れ」という言葉を聞く時、あなたは、祈る自分に目が行きます。そこには自分の罪が目に映りませんか。相手を憎んでいるその罪に、次いで祈る以上、「誰に祈るの」と考えて、天が目に入ります。「父は悪人にも善人にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせてくださる」のです。それは「ゆるし」ですが、ここには「ゆるし」という言葉は一言もありません。あの放蕩息子のたとえで、父は「ゆるす」という言葉を一度も使いません。

  天の父が太陽を上らせ、雨を降らせる時、太陽は悪人に悔い改めたら、太陽を上らせようとは言いません。ものすごく大きいのです。父は兄息子に「お前は少し律法的だよ、もう少し温かい気持ちで見られないのか」などと説教しません。「この子はいなくなったのに見つかったから、喜び祝うのはあたりまえだ」。父の目にあるのは「悔い改め」でも「ゆるし」でもありません。一匹の迷う羊が見つかった、あの名の問題なのです。一人一人が、その名で呼ばれているその名が、覚えられるのです。父は、名をもっています、「ヤハウエ、わたしはならんとするものになる」です。あなたには、あなたのように、君には君のようになる神、あなた自身をこよなく愛する神は、「わたしはあなたの名を呼んだ、たといあなただわたしを知らなくても、わたしはあなたの名を呼んだ」(イザヤ45:4)。それが天の父であります。「兄弟よ、罪の前にたじろいてなりません。罪のままの人間を愛しなされ、これこそ神の愛に似たものです」。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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