9月 3日(日)「聖晩餐の意義」説教要旨
   Tコリント  11章 20節〜29節

  聖餐論といった難しいことでなく、聖書にしたがって聖晩餐の意味を考えてみましょう。 

T 聖晩餐は食事です。
  イエスは生涯の間に、食事をよくします。取税人、罪人との食事(マルコ2:16)、パンの奇跡(マルコ6:35)、宴会のたとえ(ルカ14:7-24)、放蕩息子の帰ってきた時、第一は食事でした(ルカ15:23)。食事は、見ることによってではなく、食べることによって益を得るものです。食事は交わりでもあります。信仰もまた、見ることによってではなく、食することによって益を得る、つまりそれは、「言葉による証し」だけでなく、「出来事による証し」でもあります。
  「説教という事態」は何でしょうか。それは「神がイエス・キリストにおいて、個人においても世界、歴史も導いておられること」、つまり「神のアガペーの愛の勝利」を告げています。「汝ら世にありては悩みありされど雄々しかれ、われすでに世に勝てり」(ヨハネ16:33)という事実です。しかも、そのことは一つの思想、考えではなく、出来事として起こる。つまり説教は出来事の証言です。
1.ローマ時代の迫害の時、キリスト者は何の力ももたずに、軍事力をもつローマに勝利しました。
2.啓蒙主義の時代の科学の発達とともに、今に皆聖書など信じなくなると言っていたのに、そうはなりませんでした。
3.共産主義の出現、スターリンの弾圧にも、文化大革命の時も、キリスト者は勝利しました。
4.そんな昔でなく、現在イランのキリスト者は、イスラムの国教化の中で、迫害を受け、十五年間に三人の牧師が殉教しました。しかし、その結果、キリスト者の数は二十倍に増えました。一人の殉教者の血は福音の伝播の種となったのです。
  こうして説教で語られるイエス・キリストの事態は、ただ言葉だけでなく、事実として現れてくるのです。そのことから、説教という言葉の証しには、出来事としての証しがともないます。それが聖晩餐にほかなりません。

U 第二に聖晩餐において、障害の者にも恵みは伝達されるとい事実です。
  それは見捨てられた者の友となったイエスにふさわしいことではないでしょうか。ダウン症の子、耳の聞けない老婦人も、聖晩餐において、私たちのために十字架にかかったイエス・キリストを身近かに覚えるのです。聖晩餐のこの面は、「交わり、コンミュニオン」と呼ばれます。それはこの弱き者のために備えられた晩餐において示されるからです。ただ理論だけではなしに出来事として起こっていることは、高き者と低き者、富める者と貧しい者の交わりの中に現れるのです。このことが聖晩餐において実現するのです。

V 第三に聖晩餐はユーカリストー(感謝)です。
  パンとブドウ酒は十字架の肉と血を示しています。それは主の備えたもうもので、私たちが捧げるものではありません。それは罪とかかわりあうものです。最後の晩餐にはユダも参加しています。このユダの参与ということは、聖晩餐の深い意味を表します。
  どうしてイエス・キリストは、ユダの裏切りを知りながら、ユダを排除しなかったのでしょう。天の父はよい者にも悪い者にも太陽を昇らせ、正しい者にも正しくない者にも雨を降らせます。Tコリント11章の聖晩餐の制定の言葉のすぐ前に、富める者と貧しい者とが、いっしょに食事できない罪、分争があります。そのような人間の罪のただ中で、この聖晩餐は行われるのです。私は、悪いことをしたから、今日は、パンをいただかないのではなく、反対に、その罪の場こそ聖晩餐にふさわしいのあります。感謝とはそういう意味です。

W 第四に、来るべき御国を目指している、希望の食卓です。
  私たちのこの人生は何と希望がないことでしょう。病気の人、年とった人、失敗した人、絶望的な事態に遭遇した人、何と希望のないことでしょう。しかし、この晩餐のただ中で、イエス・キリストは言われます。「神の国でこの食事をするまで、私はぶどうの実からできたものを飲まない」と。今のこのぶどう酒は、神の国の来るまでその約束は続くのです。希望のない人よ、この主の晩餐に来れ、黙示録の最後に、こう書いてあります。「かわいている者は、ここにくるがよい。いのちの水が欲しい者は、価なしにそれを受けるがよい」と(黙示録22:17)。それは希望の書です。「私は来る。速やかに来る」(黙示録22:20)。「マラナ・タ。主イエスよ、来りませ」。それゆえ、私たちは洗礼(行為として、出来事としての証し)を受けてこの主を待つのです。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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