9月 10日(日)「ナザレのイエス」説教要旨
   マルコ  6章 1節〜6節

  故郷ナザレの人びとは、イエスにつまずきました。「この人は、大工ではないか」と。
  日本の哲学者西田幾多郎は『実践神学序説』で、こう言っています。「キリスト教信仰では我がそばにある大工のヨセフの子、ヤコブの兄弟である、この個人が神人であるというのである。それには同時存在の局面が属しているいるのである。これほどパラドックス的なことはない。ゆえに人は、この信仰につまずく。神人は矛盾の符号であるという。しかし、我がそばにいる大工の子が神である、このパラドックスが、私は我々の行為の根本原理であると思うのである。絶対矛盾的自己同一と個物的多として、我々の自己と絶対との関係は、大工の子が神であるということでなければならない」。
  つまりイエス・キリストの十字架の死の中に、この一人の中に絶対なる神を見る。相対である人間イエスは、絶対なる神である。その場合、史的イエスという人物が、その行為と人格において、絶対なる神を指し示すというだけでは足りません。イエスは神的である、神の要素が含まれているでは十分ではありません。ナザレの大工の子イエスに神を見る、そのイエスは十字架に死んだのです。

  しかし、ユニテリアンというのがあります。そこではイエスは単なる宗教家で、「私たちは互いに愛し合いなさい」と言われた。その愛の国が、神の国だというなら、きわめて分かりやすい。史的イエスの研究で、イエスはこうだという。
 しかし、そのようなイエスのために、一生を捧げるでしょうか。多くの伝道者が、福音宣教にいのちを捧げるのも、ヒューマニズムのキリスト教のためではありません。イランの牧師が殺される。それはもう国法で守られていない。殺人者は、みすごされ、むしろ英雄視される。その中で、その死を聞いて、20倍の人びとが次々と洗礼を受けるのは何のためでしょう。このお方が神であるという真理のためにいのちを捧げるのです。そこに聖霊が働いて、多くのキリスト者を起こすのだと思います。
  「クリスタルゼーション(結晶化)」という言葉で、スタンダールは、「恋愛」の感情を説明しました。しかし、それは信仰の真理でもあります。ナザレのイエスが、ただの予言者、宗教家から、生ける神に、いつクリスタルゼーションが起こるか、それは、風は思いのままに吹く、いずこに行き、いずこから来るか分からない聖霊の業であります。 

  これがキリスト教の中心真理です。私たちはこの真理を一度信じても、また手から離れることはあります。たえず最初と同じではありませんが、最初と同じ根本的疑問にさらされます。ひょっとしてこれは真理などではないのではないか。私はだまされているのではないか。その時、私を支えるものは、このお方が絶対無私で十字架にかかられ、そこで自分を十字架にかけている人びとために祈ったことです。「父よ、彼らをゆるしたまえ。そのなすところを知らざればなり」です、また「わが神、わが神なんぞ我をみすてたまいし」との十字架の叫びであります。

  北アイルランドの内戦の中で、平和運動に従事していた牧師の詩は胸を打ちます。
  「御父よ、私は時代の子にすぎません。私のまわりには、そうした人間のしるしが一杯です。ー不安−憎しみー疎外。一つの爆弾がにぎやかな市場で、爆発します。 テレビの画面には、民衆扇動者の顔々。それは嘲笑的な対決にゆがんでいます。 私の希望は、ついえ去りました。私が望んでいた事柄の死滅は、御力の勝利とは程遠い他の者らによって祝われました。父よ、こんなことがあってよいのでしょうか? 私は混乱し、怒り、なすすべもありません。私はもう後戻りしたい、私の手をきれいさっぱりと洗いたい、自分自身と私の家族を救いたい、こんなことからおさらばしたい。 けれども、私が逃げてゆこうとする時、いつも、私の道に立っているのは、一つの十字架、 父よ、何度、私は、十字架に逆らったことでしょう。その十字架が、私と私個人の将来の間に立っています。私は、捕らわれたのです。その空しい十字架、その十字架にかかっている方は、どこにいます? そこに!−このお方は、水平線に立ち、廃墟の中に立って、そして私を手招きしています、私といっしょに行こうと。主よ、私は捕らわれ人にすぎません!一人の捕らわれ人−−希望の捕らわれ人に」。

  最後はイエス・キリストの十字架が彼を動かしたのです。ヒュマニスティクなキリストではありません。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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