9月 24日(日)「洗礼とは何か」説教要旨
   マタイ  3章 6節〜9節

  T 洗礼はなぜ必要か

   無教会では聖餐も洗礼もありません。しかし、行為抜きの理屈だけで、人を救えるでしょうか。洗礼は「開始のサクラメント」と言われます。これからキリスト者としての生活が始まるのです。そしてその開始のサクラメントはただ一回だけでよいのです。十字架は一回です。それは神の業は一回で完全だからです。繰り返すことは、それが不完全であることを意味します。けれども、聖餐は違います。聖晩餐は洗礼の一回性に基づき、「栄養のサクラメント」と言われ、継続性を表します。人間がこの世に生まれるのは一回です。誕生日の二つある人はいません。しかし、ご飯は繰り返す食べます。それによって成長します。誕生は洗礼です。ご飯は聖晩餐にほかなりません。洗礼は一回であり、それはキリスト教生活の初めであって、卒業式ではありません。多くの人が洗礼を卒業式だと勘違いしています。

  U なぜ洗礼を受けるのか

   その最も大切な理由は、イエスご自身洗礼をヨハネから受けていることです。罪なき神の子が、罪の悔い改めのバプテスマを受けたとすれば、どうして罪人にすぎない私たちが、洗礼を受けずに過ごせるでしょうか。洗礼を受けずには、洗礼を受けたイエスの弟子とはなれないのです。ある人は自分で水浴びして、「イエスよこれでよいのか」と言いました。それではいけません。それは「みそぎ(あるいは洗濯か行水)」であって、「父と子と聖霊の名による」バプテスマではありません。そこには自分しかいないからです。しかし、洗礼には世々の教会があり、その会衆がいて、神の現臨する礼拝において、三位一体の名において洗礼を受けます。洗礼は上からです、自分からではありません。洗礼は、私たちの信仰の「上から」を表しています。
  それゆえ洗礼はイエス・キリストから命じられています。「すべての国人を弟子となし、父と子と聖霊の名によりてバプテスマを授けよ」(マタイ28:19)と。

  V 洗礼の意味は何か

   パウロは「では、どういうことになるのか。恵みが増すようにと、罪の中にとどまるべきだろうか。 決してそうではない。罪に対して死んだわたしたちが、どうして、なおも罪の中に生きることができるでしょう。それともあなたがたは知らないのですか。キリスト・イエスに結ばれるために洗礼を受けたわたしたちが皆、またその死にあずかるために洗礼を受けたことを。わたしたちは洗礼によってキリストと共に葬られ、その死にあずかるものとなりました。それは、キリストが御父の栄光によって死者の中から復活させられたように、わたしたちも新しい命に生きるためなのです。
  もし、わたしたちがキリストと一体になってその死の姿にあやかるならば、その復活の姿にもあやかれるでしょう。わたしたちの古い自分がキリストと共に十字架につけられたのは、罪に支配された体が滅ぼされ、もはや罪の奴隷にならないためであると知っています」(ローマ6:1-6)と言っています。
  ここで「葬られ」という言葉が大切です。キリストは葬られました。その一日土曜日は、埋葬の時です。十字架の死には受難週が、復活にはイースターがあり盛大に祝います。しかし、中の一日、「葬られ」には何の祝いもありません。しかし、その日は、イエス・キリストが黄泉に下った日です。目立たないけれども、大きなおとをなさったのです。そして私たちも、葬られねばなりません。それは新しく生まれるためにほかなりません。自分が生きていては駄目です。このように十字架の死と復活のいのちにあずかるのが、洗礼であります。洗礼において、私たちは自分に死ぬのです。

  W 洗礼を成立せしめる場は何か

   それはキリストのからだなる教会です。からだがあるからには、それにつながれなくてはなりません。地上の教会につながれなくてはなりません。そこに洗礼があります。確かにに私たちは、霊的で、天上の見えない教会につながっているでしょう。しかし、地上にその福音宣教の使命を果たすために、教会があります。この場所、それが洗礼を成立せしめる場にほかなりません。

   X 洗礼はただ求道者のためではありません

  これはすでに洗礼を受けた人も、もう一度考えるべきことです。私の受けた洗礼は何かを問われるのです。洗礼式に信仰者も感銘を受けるのは、そのためです。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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