10月 22日(日)「神はわれらの避け所また力」説教要旨
   詩編  46章 1節〜12節

  「神はわれらの避け所また力である」。これは極めて今日的問題です。一つは自然の災害、もう一つは戦争です。前者については
  「たとい地は変わり、山は海の真中に移るとも、われらは恐れない、たといその水は鳴りとどろき、泡立つとも、その騒ぎによって山は震え動くとも、われらは恐れない」
とあります。地というのは、私たちが生きている基盤です。それが「変わり、震え動く」と、今日、地震を恐れています。それは普通動かないものとして、私たちは生活しています。しかし、地球は、火の玉です。海の波が地上を襲う、普通ならそんなことはありえません。しかし、そのような時にも、神は第一に私たちの避け所です。私たちは、公営の避難場所を考え、そこへ逃げます。けれども、もう一つの逃れ場所を忘れていませんか。この二つは矛盾はしません。市役所の避難場所に逃げる時も、神の避難場所を忘れていると、からだは一時安全な場所に逃れても、心は不安で満ち満ちてしまいます。その時、公営の避難場所は、本当の避難場所にならないのです。ですから神の逃れ場所は同時に「また力である」と言います。積極的に打ってでる、その力の源は神にほかなりません。
  預言者エリヤの時、主は言われました、
  「出て、山の上で、主の前に立ちなさい、その時、主は通り過ぎられ、主の前に大きな強い風が吹き、山を裂き、岩を砕いた、しかし、主は風の中におられなかった。風の後に地震があったが、地震の中にも主はおられなかった。地震の後に火があったが、火の中にも主はおられなかった。火の後に静かな細い声が聞こえた」。
その声は、「われバアルに膝をかがめない者、七千人をわがために残しおけり」という内容でした。この神の細い声が、自然の大災害よりも大きな力を発揮します。あなたはこの神のか細い声を聞き逃していませんか。  

  「悩める時」、人は、その悩みの中で、解決をあせり、このひどい運命のきずなの中で悩みと格闘します。しかし、神は言います、「悩みの日にわたしを呼べ」(詩編50:15)、また「神はわれらの避け所、また力」と。悩みの日にこそ、私たちは自分たちの生の源に目を向けねばなりません。
  私たちの人生で、悩みも喜びも、それだけで自立しているのではなく、生の不思議な流れの中で、いのちの根源と結びついているのです。私たちが一切の根源に気がついて、そのお方を呼びもとめ、そこへと逃れること、それこそ真の信仰の祈りにほかなりません。よく悩みの中で自己回転しているような祈りもあります。悩みの中に真の「避け所」を見いだし、すべての生の根源に目を向け、そのお方にもとに行きなさい。それは生物の自己防衛本能とは違います。そこには真の救いがあります。「救われる」とは、取り出されることです。悩みの世界から、それを造られたお方の世界に移されることです。それがここで「逃れる」ということの真の意味です。
  その時、神は立派な人、強い人を助けるのではありません。ただ救い主を知って、そこへと逃れる人を救うのです。その時、私たちは助けられるだけではありません。心から救い主をあがめ、ほめたたえるようになるでしょう。神賛美に終わらない祈りは、何か重要なものを欠いています。

  次に、戦乱であります。
「来て、主のみ業を見よ、主は驚くべきことを地に行われた。主は地のすえまでも、戦いをやめさせ、弓を折り、やりを断ち、戦車を火で焼かれる。静まって、わたしこそ神であることを知れ。わたしはもろもろの国民のうちであがめられ、全地にあがめられる」。
  戦いというものは、人間の傲慢と利益関心から起こるものです。そこには、自分が神であるという、傲慢すら入ることがあります。したがって、戦争は神とかかわります。神は人間の傲慢を打ち砕きます。あのエジプト人が追いかけてきた時、モーセに対して神は、「主があなたがたのために戦われるから、あなたがたは黙していなさい」(出エジプト14:14)と言われました。 
  今、北朝鮮の原爆実験に恐れおののいています。「制裁をせよ」という掛け声は勇しいが、その内なる心は恐れです。ところが、あまりに小さい爆発なので、本当かという疑いも出ています。そうとしたら架空のことで、恐れおののいているのでしょうか。主なる神、イスラエルの聖者は言われた、「あなたがたは立ち返って、静かにするならば、救いを得、穏やかにして信頼するなら力を得る」と。しかるに、あなたがたはこのことを好まなかった。かえって、あなたがたは言った、「否、私たちは馬に乗って飛んで行こう」と。それゆえ、あなたがたは飛んで帰る、また言った、「私たちは早い馬に乗ろう」と。それゆえあなたがたを追う者はもっと早い。ひとりの威嚇によって千人は逃げ、五人の威嚇によってあなたがたは逃げて、その残る者はわずかに山の頂になる旗竿のように、丘の上にある旗のようになる)。(イザヤ30:15-17)

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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