10月 29日(日)「エゼキエルに学ぶ」説教要旨
   エゼキエル書  33.34.37章

  T 神の自由


  エゼキエルは、予定説や決定論に反対し、神の自由を主張しました。「わたしは生きている、と主なる神は言われる。わたしは悪人が死ぬのを喜ばない。むしろ、悪人がその道から立ち帰って生きることを喜ぶ。立ち帰れ、立ち帰れ、お前たちの悪しき道から。イスラエルの家よ、どうしてお前たちは死んでよいだろうか」。
  「悪人に向かって、わたしが、『お前は必ず死ぬ』と言ったとしても、もし彼がその過ちから立ち帰って正義と恵みの業を行うなら、すなわち、その悪人が質物を返し、奪ったものを償い、命の掟に従って歩き、不正を行わないなら、彼は必ず生きる。死ぬことはない。彼の犯したすべての過ちは思い起こされず、正義と恵みの業を行った者は必ず生きる」。
  今日、私たちは科学的決定論の中で生きています。科学的とまで言わなくても、常識的、因習的決定論、宿命論に生きています。DNA、性格、星座など、「あなた何座ですか」などと、よく聞かれます。あらゆる事で決定論、宿命論が、生活のすみずみまで支配しています。しかし、皆さん、性格は変わります、私自身完全に変わった経験があります。信仰が私を変えました。
  神は自由なお方で、人間を自由の中に造られました。「自由を得させるために、キリストは私たちを解放してくださった。だから、堅く立って、二度と奴隷のくびきにつながれてはならない」(ガラテヤ5:1)。私たちは伝道して、しばらくして来なくなった人ことを心配します。「来なくなったあの人は、どうなったか」と。正宗白鳥は若い頃、キリスト教に近づきかなりのところまで行きましたが、その後、離れたかに見えましたが1962年臨終の床で洗礼を受けました。今の時代この自由が見失われているのではないか。私たちはこの何ものにも犯されない、神の自由をエゼキエルから学びましょう。

  U 利己主義  

  自由というと私たちは、すぐ自分勝手になります。今日、日本にはやっているのは、完全な利己主義です。自分のことしか考えられない。自由のはき違いから、私たちは自分の利益で自分を求めます。しかし、それは欲望の奴隷に過ぎません。本当の自由は精神の自由です、何物にも犯されない、人の言葉や意見で簡単に動かされない意志の自由、心の独立をもっているでしょうか。その点、案外私たち原理主義者ではないでしょうか。
  「主なる神はこう言われる。災いだ、自分自身を養うイスラエルの牧者たちは。牧者は群れを養うべきではないか。お前たちは乳を飲み、羊毛を身にまとい、肥えた動物を屠るが、群れを養おうとはしない。お前たちは弱いものを強めず、病めるものをいやさず、傷ついたものを包んでやらなかった。また、追われたものを連れ戻さず、失われたものを探し求めず、かえって力ずくで、苛酷に群れを支配した」。これが今の現状でないでしょうか。松葉杖の人に、誰も席を立とうとしない。皆、私腹を肥やし、他を顧みない。いたわりや、思いやりの気持ちが少しもない。こんな国は世界中にありません。
  しかし、その時、「主なる神は彼らにこう言われる。わたし自身が、肥えた羊とやせた羊の間を裁く。お前たちは、脇腹と肩ですべての弱いものを押しのけ、角で突き飛ばし、ついには外へ追いやった。しかし、わたしはわが群れを救い、二度と略奪にさらされないようにする。そして、羊と羊との間を裁く。わたしは彼らのために一人の牧者を起こし、彼らを牧させる」。
  主ご自身真の牧者を送ってくださる。いや神ご自身イエス・キリストとなって、私たちのために神の愛を示し、私たちを導かれる。これはイエス・キリストの姿ではないでしょうか。主自ら僕となって、迷う羊飼いを探す。この世が日に日に悪くなってゆくその時、主ご自身が来られ、苦しめる者のところに来る。難病の人が、病床で自分より苦しむ他の人ためにセーターを編んでいた話は心を打ちます。そこには愛の自由があります。「あなたがたは自由へと召された、ただその自由を欲望の奴隷とせず、愛をもって互いに仕えなさい」(ガラテヤ5:13)。

   V 死といのち

  今日、私たちは死のことが目の前にあります。戦争、テロ、ガン、交通事故、地震、災害、あげればきりはありません。また老齢で、死を目の前にしています。
  しかしエゼキエルは言います、「見ると、谷の上には非常に多くの骨があり、また見ると、それらは甚だしく枯れていた。その時、主はわたしに言われた。『これらの骨に向かって預言し、彼らに言いなさい。枯れた骨よ、主の言葉を聞け。これらの骨に向かって、主なる神はこう言われる。見よ、わたしはお前たちの中に霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。わたしは、お前たちの上に筋をおき、肉を付け、皮膚で覆い、霊を吹き込む。すると、お前たちは生き返る。そして、お前たちはわたしが主であることを知るようになる』」。
   神は命であり、生命であります。それなのにあなたを朽ちさせることがあるでしょうか。否。あなたは生きる。ここで私たちは主イエスの復活を思い起こします。エゼキエルは非常に具体的に復活を描いています。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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