11月 5日(日)「信頼から始めよう」説教要旨
   マルコ  10章13-16 11章23-24

  イエスはいちじくの木と「祈り」をかけて説明します。
  祈りこそは、この形式化した宗教行事をきよめ、内容あるものとする唯一の信仰の表現です。そこには神との語りあいがあります。もちろん神殿でも祈りはあったでしょう。しかし、それは形式化したものでしかありません。そこには人間の言葉ばかりで、神はご臨在しません。それでイエスは言われます、「神への信仰をもちなさい。 ほんとうにあなたがたに言います、誰でもこの山に、『立ち上がって、海の中にとびこめ』と言って、その心の中で疑わず、語ったことはなると信じるなら、そうなります。それゆえにあなたがたに言います、すべて祈り求めることは、すでに得ていると信じなさい。そうすればその通りあなたがたになります」
  ここで大切な言葉は、「神への信仰」です。この言葉は直訳すると、「神の真実」となります。「神への信仰」というと、私たちの神への態度です。しかし、「神の真実」となると、それは神の私たちに対する態度です。「真実」は、信仰と同じ言葉です。あなた神の真実をもっていますか。
  いつもハンカチーフをもっているように、「神の真実」をもっていますか。「わたしは神を信じている」と言う人は、大勢いるでしょう。「神を信じる」というと、私たちが中心になります。しかし、「神の真実」というと、神中心です。「神を信じている」と言う人でも、たいがい「神の真実」をもっていません。つまり多くの人は、神がいないかのように生きています。日曜日の朝になって、初めて神を思い出す、しかし、日曜日の朝だけ食事する人はいないでしょう。毎日毎食、食事するように、わたしたちは、神の真実をもっていなくてはなりません。   

  今、物の世界が問題です。この山が海に移れというとも、その通りになる。私たちが毎日生きているのは、ほとなど物の世界です。お金のやり取りその他。その物の世界に祈りという信仰が通じるのでしょうか。
  仙台開拓の時、家内が祈った土地、そこが買えた、そしてそばに池があった。細いところを皆、近道で通っているうちに、道ができた。池の中にです。ついに道路になり、生協ができた。そして地下鉄がその池の上を通り、そこは土地になった。まさに「山が海に移った」のです。

  賛美歌に「慈しみ深き、友なるイエスは、かわらぬ愛もて、導きたもう、世の友われらを捨て去る時も、祈りに答えて、いたわりたまわん」というのがあります。これこそまさに「神の真実」ではないでしょうか。イエス・キリストが最後に「ごらんなさい、わたしは世の終わりまで、あなたがたといっしょにいます」(マタイ二八・二〇)と言われました。これが「神の真実」にほかなりません。
  そして「神の真実をもちなさい」とは、このようにどんな時にも、わたしたちから離れることのない生きた神を自分のかたえにもつことです。イエスが言うように、祈るとき、そこにそれを邪魔する、障害である山があります。決して動かない山が立っています。しかし、祈りはそれを越えて行きます。それは不可能を可能にする道であります。
  ブルームハルトは言いました、「神の言葉が、神の言葉として理解される場合、神ご自身が現にそこにいまして、この事実を生ぜしめたもう」と。 しかし、わたしたちは祈る時、そのことをすでにかなえられたと信じているでしょうか。「すべて祈り求めることは、すでに得ていると信じなさい。そうすればその通りあなたがたになります」、そうイエス・キリストは言われました。「祈りは燃えるような期待をかけるものでなければなりません。わたしたちにおける難点は、わたしたちが神から求めているものが、いつも自分自身の答えであることです。そしてそれが得られない時、きまってそこに与えられる神の答えを認めようとしないのです」。
  これが祈りの障害です。障害である山は、外の世界にあるのでなく、実は祈るあなた自身にあったのです。神は「わたしの思いは、あなたがたの思いとは異なり、わたしの道は、あなたがたの道とは異なる。天が地よりも高いように、わが道は、あなたがたの道よりも高く、わが思いは、あなたがたの思いよりも高い」(イザヤ五五・八)と言われている通りです。常識の延長線上で祈っているような祈りではなく、思いはからないことが、向こう側から来ることに期待する祈りこそ、イエスがここで求めている祈りであります。神は「わたしたちのうちに働く力によって、わたしたちが求め、思うことの一切を、はるかに越えてかなえてくださることのできる方」にほかなりません(エペソ三・二〇。)信頼から始めなさい。疑いからではなく、不信からでもなく、ただ信頼から始めなさい。

ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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