11月 26日(日)「信仰と自然」説教要旨
ローマ 8章18-30
1 信仰は人間だけの問題か、(被造物も共に)
創世記1章に「地を従わせよ。また海の魚と、空の鳥と、地に動くすべての生き物とを治めよ」とあるので、
多くの信仰者は、人間には全権が、神から与えられたと思っています。
しかし、食物として人間に与えられたのは、植物だけで、動物が食物となるのは、ノアの洪水以後です。
「さきに青草をあなたがたに与えたように、わたしはこれらのものを皆あなたがたに与える。
しかし、肉をその命である血のままで食べてはならない」(創世記9:3-4)。
神の国の状況は「さばくに水はわき」(イザヤ35:5-7)。
「乳飲み子が毒蛇の穴にたわむれる」(イザヤ10:6-9)
と人間と自然の共存です。
2 被造物の特徴は「虚無」
「被造物は、神の子たちの現れるのを切に待ち望んでいます。被造物は虚無に服していますが、それは、自分の意志によるものではなく、服従させた方の意志によるものであり、同時に希望も持っています」。聖書が被造物の特徴としてあげたのは、「虚無」です。私たちの背後にあるのは何でしょう。金、仕事、運命、名誉、見栄。しかし、実は、虚無こそ背後にあるものです。この虚無に対し、私たちが「被造物と共にうめき、共に産みの苦しみをする」(22節)ことが述べられます。しかし、アウグスチヌスは、私たちは、虚無から神の愛によって造られた、下を向けば、虚無が大きく口を空いています。けれども、もし上を見上げるなら、そこには、神の愛があります。いかなるものも、この神の愛から私たちを離れさせることはできません(ローマ8:35以下)。
3 虚無は希望につながる
今日、自然破壊、中学生の自殺、これは虚無、ニヒリズムです。しかし、この虚無こそ被造物にとって苦しみです。「キリスト者の苦しみ」は「キリストの苦しみ」とこの「全被造物の虚無の苦しみ」の中間にあります。私たちはキリストの十字架の苦しみにあずかって救われました。したがって「私たちの苦しみ」は、「キリストの苦しみ」に連なっています。しかも私たちは被造物です。けれども、ここでは苦しみのみが語られるのでしょうか。「虚無」は1回、「滅び」も1回、「苦しみ」は「うめき」を含めて4回。それに対して「望み」は8回も記されています。また被造物が虚無に服したのは、「服せしめたお方(神)による」と、そこに望みがあります。キリストは肉体という被造物性を取り、よみがえってそれを栄光化しました。その福音によって、すべての被造物はキリストと共にそれにあずかることができるのです。ここに三つのうめきがあります。(1) 被造物のうめき (2) 私たちのうめき、(3) 聖霊のうめきです。十字架はこのうめきの連帯を表しています。その時、この十字架の連帯を信じる時、「苦難とは、個人的不幸や、失敗でも、社会的矛盾でもありません。それはキリスト者としての証しの場と変えられるのです」。「現在の苦しみは、将来わたしたちに現されるはずの栄光に比べると、取るに足りない」ものです。確かに来るべき栄光はまだ来ていません。しかし、朝早くまだ太陽は出ていなくても、あたりは明るくなっています。この光から見れば、金、運命、名誉、見栄は無いもの(虚無)にすぎません。
4 聖霊の言いがたきなげき
ここに聖霊がでてきます。私たちを被造物と結ぶ線、それは単に「被造物」という類概念ではありません。むしろ聖霊です。それは「からだのよみがえり」と、使徒信条で言えば、第三項、聖霊の項であります。パウロにとってキリストと共に苦しむことが、自然の領域への介入にほかなりません。そこでは、単に自然の観察が問題なのではなく、むしろ、救済の祝福を分かち合うことが中心であります。これらすべては、信仰義認のさらなる発展と見られます。「今、人間とすべての被造物が負わされている苦悩は、この神の御業であり、その問いであり、同時にその答えであります。そしてまさにそれゆえに、すべての被造物には希望が与えられております」。だからこの苦しみは、「産みの苦しみ」と呼ばれています。「同様に、御霊も弱いわたしたちを助けてくださいます。わたしたちはどう祈るべきかを知りませんが、御霊自らが、言葉に表せないうめきをもって執り成してくださるからです」。私たちの向うには、虚無が口をあけています。空しさ、無価値、無意味が、私たちを悩ます時、神ご自身の霊は、私たちの中に働いて、この弱さをも益となるよう、助けてくださいます。