12月 3日(日)「クリスマスと罪」説教要旨
   マタイ  1章18-25

  クリスマスは嬉しいことばかり、サンタクロースにプレゼント、しかし、「クリスマスと罪」とは? 聖書にははっきりと告げています。
「マリアは男の子を産む。その子をイエスと名づけなさい。この子は自分の民を罪から救うからである」(1:21)
と。クリスマス、この子の誕生は、ほかでもなく人間の罪と関係あるのです。
  バルトは、キリストを中心に罪を考えました。神が低く来たのに、自分を高くする「傲慢」が第一、次に神はイエスを高く上げ復活昇天させたのに、この勝利を信じない卑下、「怠慢」の罪、そしてイエスが真理の証人として来たのに、嘘を言う「虚偽」が罪だと言いました。ただこれですべてがつきるのかとも思います。

  しかし、根本的に言って、二つの間違った罪についての考えがあります。一つは、「罪」と「悪」との区別がつかず、「罪がすべての人にあるかも知れない。しかし、畳みをたたけばほこりがでるように、人間誰でも致し方のないことで、大きな罪を犯してはいけないが、日常細かいことは、まあ大目に見て、お互いの生活がうまくいっていれば良いのではないですか」と言う人です。悪と罪の区別が分かっていないのです。
  悪は道徳的、日常的のものです。この人の言うのは、日常の悪の問題です。しかし、罪は宗教的なもの、信仰の世界に属することです。といっても、それは日常の世界と離れているわけではありません。あなたの日常的悪の理解から「もう一歩踏み出してください」。そこに罪の姿があります。

  同じように「ゆるす」にも二つの意味があります。一つは、「まあ良い」と言って悪い点も目をつぶり、「許可」する、ゆるしです。しかし、十字架は違います。「お前は泥のままでよい」ではなく、「あなたの長年へばりついた泥を、わたしがきれいにしてあげよう。十字架の血で洗ってあげよう。だからきれいになりなさい」と言うことにほかなりません。
  この違いをはっきりさせるために、バプテスマを受けなければなりません。「あなたは死んで生かされ、自分にばかりついている行為を離れ、今新たにされて、古い自分に執着している人間から、ただ神によって新しくされ、自分のために死んでくださった、キリスト・イエスの名をいただきなさい」と。

  二つの間違った考えのもう一つは、逆に罪のために異常に苦しんでいる人です。クリスマスの知らせは、「インマヌエル、神われらと共に」です。神が共にいるのに、共にいないかのごとく生活するのが罪です。十字架であがないきれない罪はないのにそれを信じない罪であります。
  ドストエフスキーの『カラマーゾフの兄弟』で、ある農婦が夫を殺して、懴悔のためにゾシマ長老のもとに来ます。長老はこの女性にこう言います。「何も恐れることはない、決してこわがることはないのだよ。その後悔が、お前さんの心の中で薄れさえしなければ、神さまはすべてをゆるしてくださるのだから。心底から後悔している者を神さまがおゆるしにならぬほど、大きな罪はこの地上にはないし、あるはずもないのだ。神の愛をすっかり使いはたしてしまうくらい大きな罪など、人間が犯せるはずもないのだしね。それとも神の愛を凌駕するほどの罪が存在しうるとでもいうのかな?」。
  クリスマス、「インマヌエル、神われらと共に」、十字架のキリストのあがないで、あがないきれない罪がありえない。それなのに、私たちはすぐに絶望する、「絶望は死にいたる病」だとキルケゴールは言いました。
  しかし、傲慢と絶望は紙一重です。キルケゴールは絶望には、「絶望して自分自身であろうとする絶望(傲慢)」と「絶望して自分自身であろうとしない絶望(弱さ)」と、「絶望していることを意識していない絶望」があると申しました。
  最後の「絶望を意識していない」人というのは、先ほどの畳みはたたけばほこりが出る式の人です。日常性の中におぼれ、自分の絶望にすら気がつかないのです。キルケゴールが、弱さの絶望と言っている人もあります。「だめだ」と。気が弱くてすべてを悪い方に悪い方に取る人、年中おびえている人、恐れと不安をもって生きている人です。
  これには先ほどの、『カラマーゾフの兄弟』のゾシマ長老の言葉があてはまります。「神の愛を凌駕するほどの罪は存在しないのです」。それは「インマヌエル、神われらと共に」に反しています。救いがあるのに、「ない」という罪があります。傲慢の絶望は、キリストはいらないと言う人です。自分だけで立っていると思う人です。親に育てられて大きくなったのに、あたかも自分一人で大きくなったかに勘違いしている人がいます。そのように、傲慢な人は、神さまによって大きくなったのに、それを忘れ、自分の罪を忘れている人です。クリスマスは弱さからも、強さからも自由です。「インマヌエル、神われらと共に」、そこに生きる時、私たちは本当に自由になります。傲慢からも、不安からも自由になります。新しい人生が開けてきます。それが本当のクリスマスです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


Copyright(c)2005 Setagaya Chitose-Church All rights Reserved.