12月 10日(日)「インマヌエル、神われらと共に」説教要旨
   イザヤ 7章:10-17  マタイ1章:18-25

  聖書は長いし、もっと簡潔にキリスト教の信仰を言い表せないかという要望があります。昔から、ヨハネ3:16は小福音書と言われるほど、キリスト教の真理、信仰内容を的確に言い表しています 。
「神はひとり子を賜うほどに世を愛された。これは、彼を信じる者がひとりも滅びずに永遠のいのちを得るためである」。
  しかし、「主の祈り」もまた、簡潔に信仰を言い表しているという人もあります。私の母は、単純に「主の祈り」だけをベッドで唱えて召されて行きました。それは多くの複雑な神学を知っている人の信仰にも勝るものと信じています。
  しかし、もっと簡潔に言うと、今日学ぶ「インマヌエル、神われらと共に」こそ、キリストにふさわしい言葉です。さらに簡潔にすると「インマヌエル、アーメン」です。「インマヌエル、神われらと共に」が、信仰の中心真理であることは、申すまでもありません。この言葉は実は、預言者イザヤが預言している言葉です。「それゆえ、主は自ら一つのしるしをあなたがたに与えられる。見よ、おとめがみごもって男の子を生む、その名はインマヌエルと称えられる」。この預言がどういう歴史的背景か、それは問題ではありません。それは国家的危機に、「インマヌエルよ、あなたの広げた翼はあまねく、あなたの国に満ち渡る」(イザヤ8:8)ということにあります。

  ですから旧約聖書の時代にも、インマヌエルはありました。イスラエルがエジプトを出た時、「主は昼は雲の柱をもって導き、夜は火の柱となって彼らを照らし、昼も夜も彼らを進み行かせられた。昼は雲の柱、夜は火の柱が、民の前から離れなかった」。実にインマヌエルは、ここにもありました。
  では創造の初めはどうでしょう。「神はご自身の姿に似せて、人を男と女に創造された」とあります。つまり、「共に」に創造されたのです。これは愛の「共に」であります。しかし、それが三位一体の神の反映だとすれば、「インマヌエル、神われらと共に」は、神さまご自身の本質ではないでしょうか。

  そこでカール・バルトという神学者は、「存在において、私たちすべてのものは、『インマヌエル、神われらと共に』の真理のもとにある。あとは認識の問題だ」と言いました。
  伝道は、「あなたは罪人だ、キリストを信じなければ滅びる、だから信じなさい」ではありません。「あなたにはインマヌエル神われらと共にの下にある、存在としては、すでにあなたはキリストと共にある、それを知らないだけです」、これが伝道です。誰も、誰一人として、人をクリスチャンにすることはできません。しかし、人は、すべて皆インマヌエルの下にあるとすれば、存在においてはすでにキリスト者なのです。
  そこから始めなさい。信じなさい。信頼から始めなさい。クリスマスとは、そのことを告げる日です。「インマヌエル、神われらと共に」。ここに立つ時、私自身すっかり変えられました。インマヌエルは、私の性格までも変えました。インマヌエルは、あなたの危機の時、私たちを救います。インマヌエルは、私たちの人間関係を変えます。これこそクリスマスにあたって、全世界が聞くべき真理ではないでしょうか。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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