12月 17日(日)「誕生の星」説教要旨
   マタイ2章:1-12

  東の博士たちは、当時ペルシャあたりから来た、占星術士、天文学者です。紀元六十六年に、ペルシャの博士たちが、ローマ皇帝ネロのところを表敬訪問をしたことが、歴史の書物に出ているので、このようなことも、決して不思議なことではありません。
  しかし、それに類似する歴史の事件も、どんな類比した出来事も、今、聖書が記す福音の事実を理解するのに役立ちません。マタイは細かい事実は記さず、博士が何人とか、どこからかなど興味を示さず。すべては六節の「ユダの地、ベツレヘムよ、お前はユダの指導者たちの中で、決していちばん小さいものではない。お前から指導者が現れ、わたしの民イスラエルの牧者となるからである」に流れ込んで行きます。

  この物語には光と闇が交差しています。闇はこの世に権力者、政治家から出てきます。権力者の非人間的行動が、世界を暗くしています。幼児殺戮がそれです。そのことは、昔も今も変わりありません。
  その闇の中に、神の救いの光が差し込んできます。「スイスは、人間の混乱と神の摂理によって、今日ある」ということわざがあるそうです。「人間の混乱」の闇と「神の摂理」の光とが、交差しているのが、どこの国でもその歴史であります。
  今日は、いささかどころか、大変闇の世界の方が優位を占めているように見えます。しかし、そこでも、「世界は人間の混乱と神の摂理によって、今日ある」ということは変わりません。光は暗きに照る。博士たちが、東方で見た星、それは、この救いの光を指し示しています。博士たちは、その光を見るために、千里を遠しとせずにやってきます。  

  この新しい光を見る時、人は驚くほどの努力を成し遂げます。博士たちは、千里を遠しとせずにやってきました。神の恵みとは、人間の努力をなしですませる、いわゆる「お恵みちょうだい」ではありません。かえって、この新しい恵みにふれて、私たちは、この弱い足をふみしめ、険しい岩盤をよじ登り、多くの谷や河を乗り越えて、救い主のもとに馳せ参ずるのです。
  しかし、間違っていけません、博士たちの努力によって、救い主を見つけだしたのではありません。博士たちの努力は、エルサレムの王の家まで来ました。そこで道は途絶えているのです。
  皆さん、私たちには間々そういうことがないでしょうか。私たちがこれまで、努力して来た道が、不思議と途絶えることが。芸術家や事業家は、そういう経験をしばしばしてきたはずです。ですから、そういう人は、信仰に入るのです。人間の道が途絶えるところで、彼らは神を見いだすのです。信仰とは、それほど日常生活的なことなのです。そこで道を切り開くのは、聖書の御言葉です。それと星のしるしです。御言葉と自然のしるし。それが導きの手なのです。
  「主もまた、彼らと共に働き、御言葉にともなうしるしによって、その確かなことをお示しになりました」(マルコ16:19)。信じて従う者には、御言葉だけでなく、地上のしるしがともなうのです。ところが、聖書の御言葉を学んで、精通していた律法学者先生たちは、御言葉を学んで知っていても、信じて従うことをしなかったので、しるしによって導かれることはなかったのです。聖書の言葉をいくら詳しく知っていても、信じて従わないかぎり、光を放ってきません。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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