1月 7日(日)「神は私たちの心よりも大きい」説教要旨
   Tヨハネ3章:13-24      

  「神は私たちの心よりも大きい」とは、反対に言えば、「あなたの神は小さすぎます」という意味です。
  「神は愛である」というヨハネは、愛とは反対のものを知っていました。「光りに対して闇」、また罪についても、憎しみについても語って来ました。
  今ここでも、「兄弟たち、世があなたがたを憎んでも、驚いてはいけません」とあります。私たちのまわりには、闇があり、犯罪が横行していて、時々、「この日本はどうなっているの」と問いたくなることさえあります。
  しかし、よく注意して見てください。どんなに暗い時でも、必ずそこにはなにがしかの明るさがあるものです。また明るい場合といえども、手放してでは喜べません。そこには必ず暗い面がつきまといます。
  ある人が、社会活動の中で、なかなかうまくゆかず、がっかりしていた時、私は言いました、「どんなに暗い時でも、きっとそこには明るい面があります。それは私たちがいろいろ活動して、うまくゆかず絶望的になった場合でも言い得ることです。そしてこの明るい面と暗い面が重なり合っているところに、希望があり、神さまがいるのです」と。あなたのまわりで暗いところに、ほんの一筋の光がある時、そこが大切なのです。そこに神がいますからです。そしてヨハネは、光と闇とが、戦う時、必ず光が勝つことを確信していました。「光は闇の中に照る。しかし、闇は光に勝たないのです」(ヨハネ1:5)。

  それはヨハネが、光や愛の起源を知っているからです。「神は愛です。神はそのひとり子を世につかわし、彼によって、私たちが生きるようにしました。そのことを通して、私たちに対する神の愛があきらかになりました」(4:9)とあります。
  この愛の起源は、私たちではありません。神の子イエス・キリストです。私たちの愛なら、すぐ憎しみに変わるでしょう。イエス・キリストと、その十字架の愛があるところ、この暗い闇の中で、愛の実践が説かれ、その愛が勝利すると言われるのです。
  もちろん、私たちの愛が勝利するのではありません。キリストの愛が私たちに勝利するのです。私たちは、神の子がご自分の命を捨てたことを知っています。それはただ「愛の教え」ではありません。キリストは、ただ民衆に愛を説いたのではありません。ご自分の命を捨てたのです。それは現実に歴史の中で起こったことです。この事実が、人を動かすのです。キリストの十字架は、その私たちの愛の行いの根源です。そこからすべてが発するような、愛の泉です。

  ドイツにいた時、「苦難や宿命の中で神を考える」というテーマの会に出ました。この世は不幸や苦難で満ち、不条理で一杯です。「このような苦難に満ちた世界に、本当に神は存在するのであろうか」、こういう疑問が湧いてきます。
  講師をした牧師さんの結論はこうでした。苦難と神を頭の中で並べて考えていたのでは、いつまでたっても堂々巡りで解決はありません。ドイツ語で「答え(Antwort)」という言葉は、あるものに「対して語る」ということです。それは苦難の中で、神を信じて実践をする時、回答があたあえられるという意味です。つまり「苦難に向き合って語る」のです。そして牧師さんは、私に向かって聞きました、「日本は原子爆弾の攻撃を受けていますが、こういう問題の解決はいかがですか」。私は、「苦難の解決はおっしゃるとおり実践の中で解決が行われると思います。例えば、最近阪神淡路大地震がありました。その苦難の中で、多くのボランティア活動が行われ、高度成長の金中心社会で失ったもの、真の愛を回復し、人びとは新しく生き始めました」と答えました。愛について語る人は多いのですが、愛を実践する人が少ないのです。

  しかもヨハネはさらに、人間の実践の破れをも知っています。「私たちの心が、責められることがあっても、神は、私たちの心よりも大きいし、すべてを知っておられるからです。愛せられる人びと、たとい心が責められることがなければ、神に対して確信をもちます」。
  私たちの愛は不完全で、しばしば破れを知っています。そして心に責めを感じない訳には行かないでしょう。ですからヨハネの説き方は、「神は愛だから、愛のない者は神を知らない、その愛は口先ではなく実践である。しかし、実践は破れを知っている。その破れを通して、神に目覚め、そのゆるしをうけるために、罪を告白する」。このように信仰→愛→罪→信仰→愛というように、私たちの実践は、弁証法的に進んで行くものです。パウロが「信仰から出て信仰に」(ローマ1:17)と言っているのも、そのことではないでしょうか。
  しかし、ここで強調されているのは、「神の大きさ」です。私たちが確信をもつのは、自分の自信のような傲慢なものではなく、「神は、私たちの心よりも大きいし、すべてを知っておられる」ということに対して確信をもつのです。神の大きなふところには、愛も罪も、憎しみもはいるのです。愛・信仰とは自分が小さくなることです。そして同時に、神が大きくなることです。「あなたの神は小さすぎます」。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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