1月 21日(日)「神なしでー神の前に、神と共に」説教要旨
     

  今日の説教の題を見てください。「神なしで」ーそれは無神論でしょう。ところが棒線の後は、それと矛盾するかのように、「神の前で、神と共に」です。これはナチと戦って処刑された神学者ボンヘッファーの言葉なのです。
  1933年ヒットラーの政権掌握後、ナチ的な「ドイツキリスト者」に反対する告白教会の闘争、ユダヤ人迫害、軍事的武装などが、ボンヘッファーにとって神学を、アカデミックな教会的事柄から個人的、政治的必然性へとかりたてました。その時から神学と生涯とは彼にとって、「生活の中の神学」としてまとめられました。彼はアカデミックな栄達を断ち切りました。神学部もまた、ナチ党によって統制されたからです。今やボンヘッファーは、これまで神学的に認識してきたことを、「実際生活で」生きることを始め、またその生活の中で決断せねばならなかったことを、神学的により深く考え抜きました。
  獄中書簡集『抵抗と信従』とは、彼の死後、友人のエバーハルト・ベトゲの手で出版されました。それを読む者は、生成の中にある神学に参加し、その未完の思想によって自分自身の思考を刺激されます。それは「キリスト教信仰の真のこの世性」−「地への真実」−「成人した世界」−「ただ苦しめる神のみ救いうる」と、魅力ある言葉に満ちています。

  「神なしで」は、この「この世性」、「成人した世界」「地への真実」の意味です。よく考えてください。私たちの生活は90%非キリスト教的生活です。仕事の場を考えてみても、まさに「神なしで」生活しています。 しかし、本当に神なしでしょうか。それが実は「神の前で」、「神と共に」なのです。
  現実には世俗的生活です。政治、経済、文化的生活です。みな「神なし」です。 かってブルムハルト牧師はイエスの教えに忠実なるために、州の議員になりました。ところが彼が政治的集会に出た時、彼が一言もしゃべらなくても、皆、礼拝をしたような気になったということです。聖書には、そのことを「神を見た者は、まだ一人もいない。もしわたしたちが、互いに愛しあうなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである」(Tヨハネ4:12)と表現しています。
  獄房の狭さの中で、ボンヘッファーの思考は広くなりました、それはかってなかったほどの広さです。そのまなざしは、教会から世界へと向かっています。ボンヘッファーは、世俗世界の自由、地上の生の価値、地上の美、この世の生活の喜びなどを発見しました。「信仰は全体的なもの、生の行為です。イエスは新しい宗教にではなく、生へと招きました」。突如として彼の関心を呼び覚ましたのは、「自然的敬虔」と「無意識のキリスト教」です。
  第一に、「生の完全な此岸性において」、彼は「信じることを学ぼう」とします。信仰とは、彼にとって、死に至るまで生を肯定し愛し、それによって、この世に対する神の苦悩に至るまで、世界についての神の愛に参与することを意味しています。
  彼は、キリストの中に、世界現実の中にある神の現実を認識し、神と世界という二つの領域とその対立の中で伝統的神学思考を乗り越えたのです。「神は、彼岸的にこの生のただ中にいます」。それゆえ信仰はこの現実の生のただ中で捕らえられます。そして信仰は、村のただ中にとどまらなくてはなりません。それはキリスト教的希望を新しく位置づける呼びかけでありました。天への彼岸的希望から、来るべき国と神の義の住む新しい地に向かっての前進的希望へと移り行かせる呼びかけでした。
  これが「希望の神学」への道であります。苦難を通して救う神は、天に何物にも煩わされず高みにいまし、すべてのものを見下すように支配するお方ではありません。そうではなく、「支えたもう神」なのです。あたかも母親がその子を支えるように、父親が貧しい中でその子を支えるように、イスラエルの神は、ひとりの僕となって、その民を荒野の通して支え、民を自由の大地へと導かれるのです。
  このように神は、キリストにあって、私たちの苦難と私たちの罪とを支えられるのです。私たちの神は、神なく、神を見捨てた世界を忍耐をもって「支えて」、苦難をもって「耐え忍び」、それによって常にくりかえし新しい将来を切り開かれる神なのです。この世界を支えて耐え忍ぶ神こそ、「希望の神」なのです(ローマ15:13)。
  今日の聖書の言葉、「神を見た者は、まだ一人もいない。もしわたしたちが、互いに愛しあうなら、神はわたしたちのうちにいまし、神の愛がわたしたちのうちに全うされるのである」は、「見える人間の罪やいやなことばかり聞かせられるこのごろ、この罪ある人間の見えるただ中で、見えない神が見えるように生きよう」と言いかえることができます。それは「兄弟よ、罪の前にたじろいてはなりません。罪のままの人間を愛しなされ、それこそ神の愛に似たものです」(ドストエフスキー)と同じ意味です。それが今日の聖句の本当の意味であり、そしてボンヘッファーの言う「神なしでー神の前で、神と共に」の本当の意味ではないでしょうか。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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