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2月 4日(日)「すでにといまだ」説教要旨
Tヨハネ3章1節-3節
 私たちの人生は、「すでに」と「いまだ」でできています。今年何歳と言えば、「すでに」何年生きてきたかを示し、「いまだ」と言えば、これから将来のことを考えます。いずれもマイナス面をともないます。「すでに」については、過去についての後悔「あの時、ああしなければよかった」と言います。また将来「いまだ」のマイナス面は「不安」や「恐れ」です。
 しかし、信仰者としては、神さま、キリストぬきに、「すでに」も「いまだ」も考えられません。「主よ、わたしの時は、あなたのみ手にあります」(詩編31:15)と言う通りです。
 キリストは、私たちにとって時間の主であります。西暦の年号はキリスト中心です。すると考え方は変わってきます。わたしたちは「すでに」と「いまだ」の間にいます。それが信仰の戦いです。
 「すでに」について、「わたしたちはすでに神の子なのである」とヨハネは言い切っています。私たちの生活を見ると、どうも神の子と言えるかあやしくなります。しかし、私たちが神の子であるのは、そのすぐ前にある、「わたしたちが神の子と呼ばれるためには、どんなに大きな愛を父から賜ったことか、よく考えてみなさい」、これが基になっているのです。それは自分の行いや道徳的資質によってなった神の子ではありません。大きな神の愛をいただいて、神によって神の子にされたのです。この「神の子」は、「恵みの子」と言いかえられます。
 次に「いまだ」です。「しかし、わたしたちがどうなるのか、いまだ明かではない」。将来は不確定です。でも不確定ということは良いことです。なぜなら、決まっているなら、私たちには自由がないことになります。かといって、何も決まっていない、不安のどん底ではありません。「彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似る者となることを知っている」。
 サンダーシングは、祈りを、親鳥の中に卵が温められている姿にたとえました。卵は私たちです。私たちは祈ります。それは卵である私たちが、親鳥の翼の中に入り、温められることです。卵は、親鳥の中にはいると、その温度で、だんだんに殻をつきやっぶて出てくるまでに成長します。そしてひな鳥になり、次第に、親鳥に似るものになるでしょう。
 そのように、私たちの「すでに」と「いまだ」の間に、祈りが入ります。祈りとは、キリストの「すでに」あがなってくださった、そのことを信じて、その翼のもとに入ることです。
ですから、祈りの最後に「イエス・キリストの御名によって」祈るのです。そして「いまだ」について不安に思うことを、告げるのです。「愛する者たちよ、わたしたちは今や神の子である。しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明かではない。彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似る者となることを知っている」。その通りではないでしょうか。「私たちはすでに神の子である」。だから、神の子キリストによって祈るのです。
 祈りは、この「すでに」に基づいています。「すでに」がなければ、私たちは祈ることさえ思いつかないでしょう。しかし、「いまだ」がなければ、祈る必要はないでしょう。「しかし、わたしたちがどうなるのか、まだ明かではない」、だからひざまづいて祈るのではないでしょうか。
 でも「明らかでない」だけなら、恐れ、不安だけです。「彼が現れる時、わたしたちは、自分たちが彼に似る者となることを知っている」とあります。ちょうど卵が、親鳥の中に入るように、祈りは、「すでに」を信じて、「いまだ」の不安にもかかわらず、そこに留まるのです。卵は、すぐに今日にも雛にかえるのではありません。日にちがかかります。そしてついに時満ちて、固い殻を破って出てくるのです。これが祈りです。「わたしたちは、自分たちが彼に似る者となることを知っている」。雛どりは、次第に親鳥に似てくるのです。
 パウロはこう言います。「主は霊である。そして主の霊のあるところには、自由だある。わたしたちは皆、顔覆いなしに、主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられて行く。これは霊なる主の働きによるのである」(Uコリント3:15-18)。ここにも、「主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられて行く」とあります。「すでに」と「いまだ」の間に「祈り」があって、そして祈りは、親鳥の中に入ることでです。そこに変化が起こります。必ず起こります。それは外からも分かります。
 しかし、誇ってはなりません。「これは霊なる主の働きによるのです」。これを聖化と言います。祈りは、私たちを変えて行きます。ただ祈りにも進歩がなくてはなりません。一分祈っていた人は五分というように、すこしずつでもよいのです。変化を主は求めておられます。その変化は、長い間には、大きな変化となるかも知れません。ただそれは「主の栄光を鏡に映すように見つつ、栄光から栄光へと主と同じ姿に変えられて行く」ので、主の栄光を鏡に映すのです。ですから、「これは霊なる主の働きによるのである」のです。
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