2月11日(日)「態度する価値」説教要旨
ヘブル13章1節-8節      

  有名な『夜と霧を』書いたフランクルは、アウシュヴィッツの体験で、多くの近親を失いました。しかし、その経験を通して、ロゴテラピー(言葉によるいやし)という新しい精神療法の道を確立しました。私たちはここで、心理学や、精神病理学でなく、信仰を学ぶのですから、それらから多くのヒントを得て、聖書の真理を一層深く学びましょう。

  フランクルの言葉で、いくつか感動るすものがあります。それは、「ああ、そのお話しはもっと早く聞いておけばよかった」と言った婦人に、「それを聞いた今こそが、一番ふさわしい時なのです」と答えました。それは「今ここ」という実存的生き方を教えたものでしょう。
  またアウシュヴィッツで、解放された時、「これほどの体験をしたからには、もはやこの世で、神以外の何ものも恐れるものはないという不思議な感情が人びとを支配した」そうです。私も戦争の時、それより少し小さな経験ですが、二度目に戦災で、家が丸焼けになった時、全く同じ気持ちでした。  

  フランクルのロゴ・テラピーというのは、人間の価値には、創造価値、体験価値、態度価値の三つがあると言うものです。
  創造価値というのは、何かを作り出す価値です。工場でいろいろなものを製作する。あるいは個人で陶器を焼く、絵画をかく、音楽を奏でる。主婦がごちそうを作る。いくらでもあります。しかし、創造価値だけが、人生の価値ではありません。
  第二に体験価値というのがあります。いろいろな体験をする。たとえば山登り、何も作り出してはいません。しかし、体験価値はあります。恋愛を経験する。宗教的経験をする。旅行も体験価値でしょう。
  しかし、世の中にはそれもできない場合があります。極端な場合、アウシュヴィッツです。あの強制労働と厳しい監視の中で生きることに、何の意味があるのでしょうか。しかし、フランクルは、コルベ神父さんの出来事に出会ったのでしょう。あそこで、何も作り出すことはできません。しかし、ある態度をとることができます。身代わりになって、飢餓室に入れられる。それは態度価値です。 

  今日の聖書にはこう書いてあります。「兄弟としていつも愛し合いなさい。旅人をもてなすことを忘れてはいけません。そうすることで、ある人たちは、気づかずに天使たちをもてなしました。自分も一緒に捕らわれているつもりで、牢に捕らわれている人たちを思いやり、また、自分も体を持って生きているのですから、虐待されている人たちのことを思いやりなさい」。
  これは態度価値ではないでしょうか。肺結核で何もできない人が、ベッドで祈りに集中し、多くの教会にリヴァイヴァルを起こしました。祈りこそ態度価値の最たるものです。何も作ってはいません。しかし、それには価値があるのです。
  夕礼拝でだれも来ないのに、空気に説教した牧師さん。教会に入れないで、窓辺で聞いていた人が、その姿に打たれて熱心な信者になったということです。アウシュヴィッツでさえ、何かできるとしたら、私たちにとって、何もできないことはありません。ここでは「気づかずに天使たちをもてなしました」と、創世記18:1ー9にある、アブラハムのことが記されています。これも態度価値でありませんか。イエス・キリストも、「右の手のすることを左の手に知らせるな」と言いました(マタイ6:3)。誰も知らないのですから、それは態度価値です。

  さて私がこの話をした時、筋ジストロフィーの車椅子の青年は言いました。「フランクルの言うことはよく分かります。しかし、植物人間のようになった人は、どうでしょうか。創造価値はおろか、体験価値も、態度価値もありません。こういう人は、生きる価値がないのでしょうか」。
  私は答えました、「それはもはや、フランクルの心理学・精神医学では解決できないことです。キリストの十字架のあがないは、その人の意識に関係なく、当てはまり、それは神さまのみ認める存在価値にほかなりません」。それはイエス・キリストのたとえにある(マタイ20・1-16)、夕方遅く来たものにも、同じ一デナリあたえる主の愛です。「わたしはこの最後のものにも、あなたと同様よくしてやりたいのだ」。これが神の言葉です。

  「あなたがたに神の言葉を語った指導者たちのことを、思い出しなさい。彼らの生涯の終わりをしっかり見て、その信仰を見倣いなさい。イエス・キリストは、きのうも今日も、また永遠に変わることのない方です」。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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