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2月25日(日)「神の世界に不合理な苦しみがなぜあるのか(神義論的問い)」説教要旨
 神義論と言われるこの問題は、創造論的に、またキリスト論(救済論)的に、そして聖霊論的に考えてみなくてはなりません。
 神は三位一体の神ですから、父なる神、子なる神、聖霊なる神と三つあります。もちろん、それは一人の神です。しかし、そのような三つの姿で存在するのです。それが神の深みです。
 三位一体にしたがって、創造は三つに分かれます。
 第一初めの創造、これは創世記にある最初の創造です。第二は、イエス・キリストある再創造です。Tコリント5:17には、「だれでもキリストにあるならば、その人は新しく造られた者である。古きは過ぎ去った。見よ。すべては新しくなったのである」とあります。第三の創造、それは終末に神は「新しい天と新しい地とを創造する」(イザヤ65:17)。
 第一の初めの創造は、それがさらに継続するとすれば、完全なもの完成したものではありません。しかし、創世記には、「こうして天と地と、その万象が完成した」(創世記2:1)とあります。
 ただ「完成」という意味は二通りあります。一応完成した場合と、本当に終局的に完成した場合とです。もし終局的に完成したなら、その後の歴史は変化も進歩もないものになります。第一の創造は完成はしたが、完全に完成した訳ではありません。
 神は無から世界、万物を造られました。その無とは何か、無は神の外にあるのか、神の内にあるのか。神の外なら、神は完全ではありません。内なら少しおかしい。そこでチムツム(神の自己撤退)ということが考えられます。
 神は、この世界をお造りになるのに、自分を謙虚にし、身を引かれた、そこに無の空間ができた。そこに全世界を創造されたのです。その時、「親」という字が、「木のそばで立って見ている」という構成になっているように、神は人間やその世界を自由に任せました。ご自分が自由であるように、人間を自由に世界を自立的に造られました。そこには私たちが創造しなくてはならない部分がいくらもあります。
 そこでその無が、神の自己撤退のゆえ、神の自己謙虚の空間であることを知らず、世界が虚無だと思う人びとのために、神はイエス・キリストを遣わして、私たちの救いのために用意されたのです。あの二人で三階から飛び降りた高校生は、この世界に意味がないと思って死にました、神はその虚無に生きる人間をも愛の対象となさいます。
 「救いとは人間が神ともう一度真の交わりを結ぶことによって、他の人間や世界と失われた関係をふたたび取り戻すことにほかなりません。ですから、個人だけ、選ばれた者だけが救われるということはありえません。全人類と全世界が救われ、その本質が根本的に改められ、生きとし生けるものすべてが生まれ変わらなければ、十字架に表される、この世の苦しみと悲劇は、、絶対に終わりには達しないでしょう、私の救いとは、他の人の救いとかかわりあっているばかりか、動物、植物、鉱物、いや一枚の草の葉とさえもかかわりあっているのです。こうして宇宙のすべてのものが全面的に変容し、神の国のものとならなければ、私自身もまた救われるか否かは、もっぱら私の創造活動いかんにかかっていると言っても過言ではないでしょう」(ベルジャーエフ)。
 なぜ第二のキリストによる創造は、十字架で示めされるのでしょうか。次のボンヘッファーの獄中の詩は、苦悩の神を示しています。
- 1 人間は困窮におちいって神に行き、
助けを哀願し、幸福とパンとを乞い求め、
病いととがと、死からの救いを求める。
人間はみな、キリスト者も異教徒も、みなそうする。
- 2 人間は困窮の中にある神に行き、
貧しく、はずかしめられ、よるべなくパンなき神を見いだし、
罪と弱さと死に飲み込まれている神を見る。
キリスト者は苦しみたもう神のもとに立つ。
- 3 神は困窮の中にあるすべての人間のもとに来り、
肉体と魂を彼のパンをもって飽かせ、
キリスト者と異教徒とのために十字架の死を死に、
彼らのいずれをもゆるしたもう。
 また日本の神学者北森嘉蔵は「神の痛みの神学」を書きました。痛み苦しむ神こそ真の神であることを示しました。そうでなければ、なぜあのアウシュヴィッツの後、「このような経験をしたからには、神以外の何ものも、恐るべきものはこの世にないという不思議な感情が人びとを支配した」と言えるのでしょう。  十字架で示されているものは、苦しみの説明ではありません。神義論でもありません。それは一つの大きな実践です。神は、あなたの苦悩の中に入りたい。いやそこに入って共に苦しむ。これが十字架の神であります。
 どうして不合理な苦しみが、この世にあるかとの問いに対する、答えは十字架のキリストであります。神は、天のかなたにいまして、不変不動のギリシア哲学の神ではありません。「彼らすべての悩みの時、主も悩まれて、そのみ前の使いをもって彼らを救い、その愛とあわれみとによって彼らをあがない、いにしえの日、つねに彼らをもたげ、彼らを携えられた」(イザヤ六三・九)。十字架は、神の「共に」を表しています。十字架の「十」の横の棒を私たちの苦悩とします。その縦の棒は、神の痛み、苦悩にほかなりません。その二つが、交差するところ、十字架があるのです。
 最後に聖霊、「御霊もまた同じように、弱い私たちを助けてくださる。なぜなら、私たちはどう祈ったらよいかわからないが、御霊自ら言いがたき嘆きをもってとりなしてくださるからである」。「なぜなら、御霊は聖徒のために、神の御旨にかなうとりなしをしてくださるからである。神は神を愛する者たち、すなわち、ご計画にしたがって召された者たちと共に働いて、万事を益となるようにしてくださることを、私たちは知っている」(ローマ8:27-28)。創造の完成があります。十字架の「共に」を信じ、それに生きる所、すべては私たちの益に変わります。
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ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。 |
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