4月1日(日)「苦しみと愛」説教要旨
マタイ27:45-56

  十字架は一言で言えば、「苦しみと愛」です。しかし、苦しむ愛にも、子供のために苦しむ親の愛もありますし、また町の為に苦労する愛もあります。
  説教を分かりやすくするには、一般化すればよいでしょう。しかし、それでよいでしょうか。そこには一般化できない何ものかがあります。イエスは単に預言者なら一般化されて分かりやすい。しかし、イエス・キリストは神である、それは特殊で、普通は分かりません。けれども、ユニテリアンでは、イエスは人間で、人類に愛を説いた偉い人です。しかし、それだけなら、私は、一生かけて、この教えを、命懸けで守ろうとは思わないでしょう。
  リヴィングストンというアフリカの宣教師の物語を読むと感動します。命懸けで、あの未開の地にこの教えを伝えたのです。それはただ一般的な教えでなく、イエス・キリストが命を懸けて、人類を愛し、そのお方こそ神だからです。神は愛だといえば、一般的で分かりやすいでしょう。しかし、その時、人びとは、「愛が神だ」と勘違いします。また愛にも、アガペーとエロースがあります。十字架における愛こそ特殊の中の特殊なのです。だからこそ、そこに力があるのです。

  このイエスが十字架にかかった時も、この特殊を信じた人がいました。弟子たちが、逃げているのに、イエスを十字架につけた、そのローマの兵隊の隊長が、「本当に、この人は神の子だった」と言いました。
  またルカ福音書では、イエスと共に十字架につけられた犯罪人の一人が、「どうか御国に入る時、私を覚えていてください」とお願いしました。するとイエスは、「今日あなたはわたしといっしょにパラダイスにいるであろう」と言われました。イザヤは、「わたしは、つまづきの石・妨げの岩をシオンにおく、これにより頼む者は辱められじ」(イザヤ28:16、8:14、ローマ9:33)と言っています。それはつまずき、特殊です。テルトウリアヌスは、「不合理なるゆえに我信ず」と言いました。キリスト教に、このつまずきの石がなく、一般的な教えなら、二千年続かなかったでしょう。

  イエスの苦しみは、一種独特なものです。それは、「わが神、わが神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか」という不可思議な言葉に表されています。 イエスは神の子である、それなのに、どうして父なる神に見捨てられるのか。それでは父と子が仲たがいしているではないか。

  その解答は、たった一つのことで言い表すことができます。「代理」です。また「和解」という言葉の原語はカタラゲーは、チェンジの意味(交換、交替)です。 それは私たち人間のもつ深い罪を、このお方が、代わりに、代理として、担うのです。
  この祈り叫びは、私たちの叫びです。苦しみは、私たちで言えば、病気の苦しみ、人間関係の苦しみ、争いの苦しみ、戦争の苦しみ、貧乏の苦しみ、いろいろあります。しかし、人間の苦しみの究極は、「罪」と「死」につきます。戦争は人間の罪から起こり、それは死につながります。病気、その苦しみはやはり死です。苦しみの根源は「罪」と「死」です。そしてイエス・キリストはその根源的否定を担われたのです。そのためにその死において、十字架の死において、この罪が死が、勝利に飲まれたのです。それは「代理」です。チェンジです。それゆえ彼は、この私たちの罪を負って捨てられなくてはならなかったのです。
  あそこで叫んでいるのは、ほかでもなく、あなたの罪、私の罪なのです。「見捨てられている」のは私です。あなたです。しかし、チェンジ、「代理」、イエスがあなたの罪を負われれば、それが救いになったのです。
  では愛について、あるキリスト者でない学者が、「イエスという人は、イエスを否定する人のために祈る、『父よ彼らをゆるしてやってください』と言った。自分を救わずに他者を救う、このような愛を否定することだれもできないと。自分を否定する人をも、なお愛するその人を否定することはできません」と書いていました。
  法王ヨハネ・パウロ二世は、1981年5月13日ローマのサン・ピエトロ広場で、トルコ青年に狙撃され、瀕死の重症を負いました。しかし、奇跡的に回復し、狙撃犯アル・アジャは捕らえられ、無期懲役に処せられ、イタリヤ中部の刑務所に服役しました。
  この青年にヨハネ・パウロ二世をどう思うかと問われた時、この受刑囚はこう答えたということです、「事件後、法王は刑務所に来られ、『あなたの犯した罪はすべてゆるす』と言われました。この時、私は自分の愚かさを悟り、すべてを告白しました。私はイスラム教徒で法王はカトリック教徒だが、私にとって法王は一宗教を超えた存在です」。十字架の愛と苦しみはあなたのものです。代理的苦しみ、それは絶対的苦しみ、苦悩の極でしょう。否定する者をなお愛する、それは絶対的愛、愛の極でしょう。それが十字架です。法王はただこの十字架の主に従ったのみです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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