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4月22日(日)「友なるイエス 」説教要旨
ヘブル2:17−18
 カトリックの神学者の著作に『われらの兄弟なるキリスト』という本があります。私たちはパウロのいう「主イエス・キリスト」になれていて、「兄弟なるキリスト」というと、新鮮な感じがします。しかし、そのパウロ自身、「御子を多くの兄弟たちの中で長子とならせるためであった」(ローマ8:17-18)と言っています。
 子である以上、イエスと兄弟です。またイエスを「友」というのは、ヨハネ福音書に多くあります。「私たちの友ラザロが眠っている」(11:11)。「あなたがたはわたしの友である」(15:14)。そして今日の箇所ヘブル2:17-18には、「そこでイエスは、神のみまえにあわれみ深い忠実な大祭司となって、民の罪をあがなうために、あらゆる点において兄弟たちと同じようにならねばならなかった。主ご自身、試練を受けて苦しまれたからこそ、試練の中にあるものたちを助けることができるのである」とあります。
 ここに二つのキリスト論があります。「主キリスト」、その前に自分は小さく無にすぎない、すべてはこの主がなしたもうたと、主を仰ぐ信仰。しかし、それだけが聖書のキリスト論ではありません。もう一つ、今日学ぶ「友なるイエス」あるいは「兄弟なるキリスト」があります。ピリピ書に「キリストは神のかたちにましましたが、神と等しくあることを固守すべきことと思わず、おのれを無にして、僕のかたちをとり、人間となられた。その有り様は人と異ならず、おのれを低くして死にまで十字架の死に至るまで従われた」とあります。すると、主は、われらのかたえに、あなたのそばに、並んでいらしゃるのではないでしょうか。賛美歌に「いつくしみ深き、友なるイエスは、われらの弱きを知りて、憐れむ」とあります。
 そのためキリストが苦難を通して来なければなりません。ここには「僕キリスト論」ではなく、「兄弟キリスト論」があります。
 「主と僕」というと、わたしたちを、信仰の実存的深みに引き込んでくれますが、そこに社会的広がりを見ません。「兄弟なるキリスト」というと、わたしの日常性の中に、すぐ隣りにイエス・キリストがいらっしやるようで、そこには何か社会的広がりを感じます。
 ヨハネ福音書の「友キリスト論」は、こうです。「わたしがあなたがたに命じることを行うなら、あなたがたはわたしの友です。わたしはもはやあなたがたを僕たちとは言いません。僕は主人のすることを知らないからです。わたしはあなたがたを友だちと言いました。わたしが父から聞いたことをすべて、あなたがたに知らせたからです」(15:14-15)。
 わたしたちは、これまでの「主−僕キリスト論」に、もう一つ「兄弟キリスト」、「友だちキリスト論」を加えなくてはならないのではないでしょうか。ヘブル書の「兄弟キリスト論」は、ヨハネの「友キリスト論」よりも、さらに一歩踏み込んでいます。
 ここには大切なことが隠されています。「彼らを兄弟と呼ぶことを恥とはされない」、イエス・キリストは今わたしたちを「兄弟」と呼んだばかりでなく、自らわたしたちの兄弟そのものとなられたのです。
 しかし、ただ「兄弟姉妹仲良く」といった意味で、兄弟なのではありません。それは「試練と苦しみ」の中で姉妹兄弟なのです。
 わたしたちはふつう「主イエス・キリスト」と言って、高いところにいます、崇高なキリストを信じ崇めていますが、わたしのすぐそばに、わたしの兄弟として、このわたしの苦しみを共にし、試練に悩んでくださるイエスを信じているでしょうか。わたしたちは英雄的なキリストを連想してはなりません。この地上をはいまわり、試練の中で苦しみぬき、もはや何の力も、強さも残らないまでに、自分を捧げつくし、悪魔との戦いで丸裸にされ、ただそこに神の言葉以外に何も残されていない、わたしの兄弟イエスを見るべきです。
 荒野の誘惑は、そのことを表しています。イエスは、空腹のあなたのかたえにいます。病めるあなたと共に、病んでおられます。弱いあなたの弱さを、いっしょに痛んでおられるのです。わたしたちの罪と弱さを知って、それを十字架の横木に担いつつ、天への道をわたしたちといっしょに歩んでくださるのです。
 「憐れみ深い忠実な大祭司」とは、高みから神のみ旨を告げ知らせる預言者と違って、わたしたちの弱さの次元で、わたしのかたわらで十字架を負い、苦しまれるイエスの姿なのです。ヘブル人への手紙は、この大祭司イエスを描いているのです。
「この大祭司は、わたしたちの弱さを思いやることのできないような方ではありません。罪はおかされなかったが、すべてのことについて、私たちと同じように試練に会わねばならなかった。だから私たちは憐れみを受け、また恵みにあずかって時宜を得た助けを受けるために、はばかることなく、恵みの御座に近づこうではないか」(4:15)。しかし、あなたのすることがあります。それはそのように近く来てくださった神の子に、私たちの方が近づくことです。
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