7月15日(日)「さばくなかれ」説教要旨
マタイ7:1-5

  「さばくな」とは、人に忠告したり、あるいは裁判官がさばいたりすることもいけないのでしょうか。裁判については、ローマ書13章にあります。それは国家の権威の問題で別のことになります。今、ここでは個人的、信仰的生活においてでしょう。
  愛の反対は、憎しみであると共に、「さばき」です。「さばく」と言うと、憎む場合よりも、何か、正義の響きがないでしょうか。愛が、美しい言葉であるように、さばきのうしろにも、「正義」と言う美しい言葉があります。人をさばく人は、いつもこう言います、「私は、自分の利益で言っているのではない。ただ彼を悔い改めさせ、正しい道に導きたいのだ」、確かに正義は立たなくてはなりません。
  ここでイエスは、「人をさばいては、一切ならぬ、正義の叫びもいけない。人を善導してもいけない」と言っているのではありません。「自分の目にある梁(丸太)があるのを見ないで、兄弟にむかって『ごめんなさい、あなたの目にあるちりを取ってあげましょう』と、どうして言うことができるでしょうか。偽善者よ、まず自分の目から梁を取りのけなさい。その時、あなたの兄弟の目にあるちりを取りのけられるほど、はっきりと見えてくるでしょう」と言います。人を正すことがいけないのではなく、自分の目に大きな梁があるのを忘れていることが、いけないのです。
  私たちはいつも、先生きどり道案内きどりでいます。そこには意識しないで、上下の思いが出てきませんか。神と言う絶対の基準が現れ、自分が打ち砕かれるまでるまで、人はそれに気づかないのです。

   「もしある人が、事実そうでないのに、自分が何か偉い者でもあるように思っているとすれば、その人は自分を欺いています。一人一人自分の行いを検討してみなさい。そうすれば、自分だけには誇ることができても、ほかの人には誇ることができなくなるでしょう」(ガラテヤ6:3)。
  誰でも、自分をよく考えてみると、大きなことは言えなくなります。それで、信仰はキリストの教えに従って、自分を判断することから開始します。「医者の不養生」・「紺屋の白袴」とよく言われます。「おお、すべて他人をさばく人よ、あなたには、言い逃れる道がありません。。他人をさばくことによって、自分を罪に定めているのです。さばくあなたもじずから同じことを行っているのです」(ローマ2:1)。
  信仰は、このような、自惚れの「括弧(かっこ)」を解き放つのです、裸のままの自分をさらけ出すのです。判断が人に向けられた時、いつも自分が、神になります。自分をかっこに入れた判断、批判、そこには、神の入る余地はありません。しかし、その判断、批判が自分自身に向けられた時、私は小さくなり、神を仰がざるをえせません。神は、相手の人を、私が判断する以上に、良く判断されるのです。人間の判断は、いつも自分が絶対です。この絶対のわくを取り除かぬかぎり、人を正しく判断することはできません。
  このわくを取り除く作業、それが信仰にほかなりません。他人の目にあるのは、ちりです、自分の目にあるのは、梁です。自分の大きな罪に気づかないことは、実に二重の罪にほかなりません。神は、私たちの梁を見逃したもうことはありません。この私の罪は、現実に隣人の罪に出会う時、あきらかになります。少しばかりの隣人の罪が気になってしょうがない、その時、注意しないと、批評家、裁判官となってしまいます。しかし、イエスは、人の目からちりを取りのけまえ、 さらることを断念せよとは教えていません。「まず自分自身の目から」、この「まず」が大切であります。まず神の前に立とうではありませんか。「まず神の国と神の義とをもとめなさい」という、あの「まず」であります。
1 主よ、我を捕虜となしたば我自由ならん。 我が剣をなげうたせたまえ、 さらば我勝利者とならん
我ひとり立つとき、 危うき淵に臨むなり。  汝の御手のうちに我をとらえたまえ、さらば我が腕は強められん

2 我が主を見いだすまでは、 我が心は弱く乏し。 汝、我が魂の鎖、解き放すまで、 我、何の行いもなすをえじ。
風のまにまにそよぐのみ。 くしき愛もて、  我をとらえたまえ、 さらば我がたまは世を導かん。

  この讃美歌三三三番にあるジョージ・マセソンの歌にるように、私が、主の愛に打ち勝たれた時のみ、私は相手の導き手となりうるのです。
ぜひ、あなたも礼拝に出席して直接お聴き下さい。一人でも多くの方のご出席を心からお待ちしています。
   


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